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猫を電子レンジで殺した少年4人が逮捕、掲示板炎上 [犯罪・事件]

 アルバータ州カムローズの民家に侵入し、飼い猫を電子レンジで殺害した少年4人が逮捕された。
 被害を受けた住人は、12月から休暇で家を留守にしていた。少年らはその間に押し入り、盗みをはたらいたうえ、12月30日、電子レンジの中にこの家の飼い猫を押し込め、電源を入れて殺害した。そのうえキッチンの戸棚にペンで「かわいい猫だね、電子レンジの中を見てみな」と落書きまでしていた。
 少年らは13歳から15歳の間で、この家の住人とは面識がなく、器物損壊、家宅侵入、窃盗、動物の不法殺害などの罪ですでに起訴され、2月に公判が行われる予定

 インターネット掲示板では、この少年らに対する批判が過熱した。ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)のフェースブックには、少年らに対し「射殺されるべきだ」「怪物のような人間だ、拷問してもいい」などのコメントが書き込まれ、さらに少年の実名を公表したり「顔をぶっつぶしてやれ」などの過激な批判のほか、動物虐待行為の減少に向けより厳格な法律を導入すべきだと訴えるものもあった。
 こうした投稿は、未成年容疑者の身元を明かすことを禁じたカナダの法律に抵触するとして、警察当局は1月7日、複数のウェブサイトを閉鎖したと発表した。
 リー・フォアマン警視は「25年警察官をやっているが、こんな事件は初めてだ。ひどい出来事だ。新年なだけになおさら悲しい」とコメントした。


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セックス党パンフ配達拒否でカナダ郵政公社が敗訴 [犯罪・事件]

 カナダの登録された政党である「セックス党」は、2006年連邦議会選挙において、カナダ郵政公社に党のパンフレットを猥褻とみなされ配達を拒否された件で、2006年10月に裁判を起こしていたが、2008年1月15日、連邦裁判所は同党の訴えを認め、配達拒否を違法とする判決を下した。


 セックス党が配布しようとしたパンフレットは、「性に理解のある未来に向けた政治」と題された4ページからなるもので、党の綱領のほか、性行為中の裸の人物の背中や男性性器の彫刻の写真と、7つの質問からなる「セクシャルIQテスト」を含んでいた。
 裁判は、表現の自由と性描写からの子供の保護をめぐって争われた。被告のカナダ郵政公社は、セックス党の小冊子には写真や図が多く、家庭内で子供が手にしたら悪影響を及ぼすと抗弁した。郵政公社の規則では、「違法な郵便物」を拒否することができると規定されている。
 いっぽう、弁護士でアダルトショップ「愛の芸術」の経営者でもあるセックス党のジョン・インス党首は「我々はすべての国民に保証された権利を主張する。政府には平和的な政治表現を禁止する権利はない」と述べ、パンフレットは新たな党員募集と資金集めが目的だったと説明した。さらに「郵政公社は反同性愛を訴える郵便物を検閲していないのだからセックス党の郵便物を検閲する権利はない」と述べた。
 マイケル・ビュードリー判事は、党のパンフレットの中に違法なものは存在しなかったとして、セックス党の主張を全面的に認め、カナダ郵政公社に対し、6か月以内の性的郵便物配達に関するガイドラインの是正を命じた。

 インス党首は判決を受け、勝利宣言を行った。
 「我々は、これを勝利と考える。これは法による支配の勝利である。カナダ郵政公社は、法の上位に位置するものではない。」

 セックス党は、「性的肯定のみを主張する世界初の登録された政党」として、2005年ブリティッシュコロンビアで結成された。公教育における実技を含む性教育の推進、猥褻罪の廃止、売春の自由化、報道規制の見直しのほか、18歳未満や3人以上のアナルセックスを禁じたカナダ刑法の条文の撤廃を主張している。党員は約230名で、過去に選挙で3人の候補者を立てているが、全員落選している。
 
 
写真上・中:セックス党が配布したパンフレット。
写真下:ジョン・インス党首。


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元メディア王コンラッド・ブラック氏に懲役6年6か月 [犯罪・事件]

http://blog.so-net.ne.jp/canadian_history/2007-07-15

 12月10日、元ホリンジャー・インターナショナル社最高経営責任者のコンラッド・ブラック被告に、懲役6年6か月と罰金12万5000ドルの90日以内の支払いが宣告された。彼は3件の詐欺容疑と司法妨害のため、最高で20年の懲役の危機に直面していた。

 被告側弁護士の1人アンドリュー・フレイ氏は「63歳の被告に懲役6年6か月は長すぎる」と語った。だがエディー・グリーンスパン弁護士は「罪状が9000万ドルの詐欺を含んでいたことを思えば、我々は終身刑と戦ったようなものかもしれない」と語った。
 裁判で被告側弁護団代表ジェフリー・スタインバック氏は「ブラック氏は、彼が盗みを働いたといわれる企業帝国を築いた勤勉な実業家だ。銀行強盗は自分が設立した銀行から盗むようなことはしない」と弁論した。だが検察側は、ブラック被告が反省の色を見せず、法廷を侮辱さえしたと反論した。
 裁判はブラック被告のほか、彼のファイナンシャル・アドバイザーだったジャック・ボルトビー被告に懲役27か月及び3年の保護観察処分と15万2000ドルの賠償、ホリンジャー社主任法律顧問のピーター・アトキンソン被告に懲役24か月と罰金3000ドル、弁護士マーク・キプニス被告に懲役6か月及び地域奉仕活動の判決を下した。


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ロバート・ピクトン被告に有罪判決 [犯罪・事件]

http://blog.so-net.ne.jp/canadian_history/2007-01-27

 12月9日ブリティッシュコロンビア最高裁で、ロバート・ピクトン被告に有罪判決が下った。
 セリーナ・アボッツウェイさん、アンドレア・ジョーズベリーさん、モナ・ウィルソンさん、ジョージナ・ペイピンさん、ウォルフ・フレイさん、マーニー・フレイさん6人の殺害に関し、主席陪審員が第一級殺人罪について無罪を6度宣告したとき、傍聴席からは絶叫やすすり泣く声が聞こえた。だがその後、6人の殺害について第二級殺人罪で有罪を宣告したとき、その声は歓呼に変わった。
 この判決は、ピクトン被告が終身刑に課せられる可能性を含むものの、第一級殺人罪では刑期25年を経過して仮釈放申請ができるのに対し、第二級殺人罪では刑期10年で申請することが可能となる。
 判決の後、事件の捜査にあたったRCMPのビル・フォーディは「遺族の方々は落胆しているのではないだろうか」と語った。
 またウォーリー・オパール司法長官は、「ピクトン被告が出所することはないだろう」と語った。

 ピクトン被告は少なくとも49人の女性を殺害した容疑があり、この後さらに20人の女性殺害についての公判が控えている。


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トラスコット元死刑囚、再審で48年ぶりに無罪に [犯罪・事件]


 1959年にオンタリオ州クリントンで起きたリン・ハーパーさん(当時12歳)暴行殺害事件の容疑者として逮捕され、14歳で死刑を宣告されたスティーブン・トラスコット元死刑囚が、事件から48年後の8月28日、オンタリオ州地方裁判所で無罪を言い渡された。

 (1) 事件の概要
 1959年6月9日の夕方、クリントン空軍基地の近くでトラスコットは彼の自転車に同級生のリン・ハーパーを乗せ、ハイウェイ8号線の方に向かった。だがその2日後、ハーパーはローソン氏の所有する藪地で遺体となって発見され、遺体には暴行された痕跡があった。トラスコットは被害者を見た最後の人物とされ、その翌日逮捕され、さらに翌日殺人罪で起訴された。

 (2) 裁 判
 トラスコット被告は、被害者が両親と口論したので、どこかで車を引っかけてドライブする予定だと言っていたと語った。彼は裁判で、被害者に危害を加えることなく郡道とハイウェイ8号線の交差点まで連れて行き、彼女を降ろして別れてから、自転車で橋に到着したとき振り返ったら、車が止まって被害者が乗り込もうとしているのを見たと主張した。だが検察側は、トラスコットと被害者がベイフィールド川に架かる橋に到達する前に郡道からはずれ、「ローソンの藪」に入り被害者を強姦した後殺害したと主張した。また法医学者の鑑定も、被害者の胃の内容物によって死亡時刻を6月9日の午後7時から7時45分の間と推定していた。それは犯人がトラスコット以外にあり得ないことを示していた。わずか15日の裁判の後、彼は有罪であるとして絞首刑を宣告された。こうして彼はカナダ史上最年少の死刑囚となった。
 彼は1959年12月8日に死刑執行される予定だったが、1960年に終身刑に切り替えられ、10年の刑期を務めた後1969年に仮釈放され、改名してオンタリオ州ゲルフにひっそりと暮らし、結婚して3人の子をもうけた。この事件はカナダが死刑を廃止するのを後押ししたとされる。
 2000年、トラスコットは30年の沈黙を破り、CBCテレビの「第五の権力」に出演し無実を訴えた。アーウィン・コトラー法務大臣は2004年、ついにオンタリオ地方裁判所に再審を命じた。

 (3) 開かれた再審の門
 カレン・ジャッツィ(旧姓)は9歳のとき、1959年6月9日の午後7時より遅い時刻に橋の上で、郡道でトラスコットが被害者を乗せた自転車を漕いでいるのを見たと証言した。だが彼女は後に裁判記録を読んだとき、自分は橋の上ではなくローソンの藪の近くにいて2人を見たと証言したことになっていて驚いたと、2006年の再審で証言した。
 被告側はまた、多くの医師・学者を喚問したが、その全てが被害者の死亡推定時刻を6月9日の午後7時から7時45分までの狭い時間に限定する理由への疑問を投げかけた。
イギリスの有名な病理学者バーナード・ナイトは、警察が被害者の胃の内容物によって死亡時刻を断定したことを「非常に不正確でほとんど価値がない」と批判した。
 オンタリオの主任病理学者マイケル・ポラーネンは、被害者の死亡時刻を正確に示す証拠はなく、死亡推定時刻は死体が発見された1日後とすることも可能だと語った。
 他の証人は、被害者の遺体から検出された蛆に着目した。蛆は死の直後に遺体に産みつけられるからである。
 当時オンタリオ法務省犯罪研究所勤務していた生物学者エルジン・ブラウンは、被害者の死体から検出された蛆が6月10日の午後2時30分ころ孵化したはずだと法廷で語った。彼は蛆が孵化の初期段階にあったので、卵は6月10日の朝以前に産みつけられたものと推定した。
 検察側の昆虫学者シェラ・バンラーホーベンは、卵が産みつけられた時刻は6月10日午前11時から翌朝8時の間と推定した。この時間帯はトラスコットが真犯人でないことを示す。しかしバンホーベンは、被害者が6月9日日没以前に死亡した可能性を除外することはできなかった。
 パーデュー大学の昆虫学者ニール・ハスケル博士は、幼虫が午後9時と午後9時30分の間に産みつけられに違いないと語り、死亡時刻はこの間かまたはこの2時間前以降であると証言した。これはトラスコットの犯行を可能にするギリギリの時間帯であった。
 2007年8月28日オンタリオ地方裁判所は、トラスコット被告の完全な無罪を裏付けることはできないものの、真犯人とする決定的証拠を欠いているとして無罪を言い渡した。

 (4) 事件の鍵を握る人物?

 1960年代のある日、クリントン空軍基地のとある将校は、リン・ハーパー殺害事件の調査に重大な疑問を投げかける文書を基地内で発見し、身ぶるいした。その文書はA・K軍曹の性犯罪について記されており、あたかも誰が真犯人なのかを示唆しているように思えた。その文書はその後40年間、闇に消えた。だがCBCテレビ取材班は、900ページにもわたるその文書の一部をついに発見した。
 A・K軍曹は、性犯罪の前科のある飲んだくれのトラブルメーカーだった。彼はクリントン空軍基地から車で20分ほどの農家に住み、1957年まで技術者としてそこで働いた。
 トレントンに配属されていた1950年、彼は2件の公然猥褻罪で有罪判決を受けた。リン・ハーパー殺害事件の3週間前には、オンタリオ州セントトーマスで、10歳の少女を車に誘おうとしたが、彼女の父親が近づくのを見て立ち去った。彼は後日逮捕されたが、その1週間後、証拠がないため不起訴となった。
 リン・ハーパーが殺害された3週間後の7月2日、A・K軍曹は「強い不安と罪悪感」に苦しんでいると上官に訴えている。A・K軍曹はまた、1959年の初めにカナリーイエローのポンティアック・ストラトチーフを購入しているが、ハーパー殺害事件の数週間後にそれを売ったときは、まだ2・3か月使用しただけだった。なおトラスコットが郡道の交差点で見たと言った車は、灰色のシボレー・ベルエアだった。
 A・K軍曹は、過度の飲酒が原因で1975年に死亡した。

 (5) カナダの死刑制度
 1976年、下院で刑法から死刑の条項を削除する改正案が、党議拘束なしの自由投票の結果130対124で可決し、カナダは通常犯罪での死刑を廃止した。なお1962年を最後に死刑は執行されていない。その後は軍事裁判に限り、戦時中に限り、敵国に機密を漏らした反逆罪について、軍人に限り死刑が残されたが、この規定も1998年に廃止されすべての犯罪について死刑を廃止した。1987年には与党進歩保守党が死刑復活の動議を下院に提出し、127対148で否決されている。
 
 
写真上左:リン・ハーパー。
写真上右:少年時代のスティーブン・トラスコット。
写真中:A・K軍曹。
画像下左:ポンティアック・ストラトチーフ。
画像下右:シボレー・ベルエア。


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スカボロー・レイピスト [犯罪・事件]


 (1) 生い立ち
 ポール・ベルナルドは1964年、オンタリオ州スカボローの裕福な家に生まれた。だがその内情は悲惨だった。公認会計士だった父ケネスは母マリリンを虐待した。彼女は昔の男友達に救いを求め、挙句に身籠ったのがポールだった。ケネスは寛容にもポールを我が子として受け入れたが、虐待は止まず、マリリンは次第に精神を病んでいった。
 ケネスの悪行はこれに留まらなかった。彼はご近所を覗いて回るようになり、少女たちに性的いたずらを働いた。そのうえ彼は自分の娘にもいたずらしていたのである。
 ポールは母から父の子ではないと告白され、父と同様に女性を蔑視する人間に育っていった。そして父と同様に覗きに出歩き、強姦を始めた。「スカボロー・レイピスト」事件の始まりである。

 カーラ・ホモルカは1970年、オンタリオ州ポート・クレディットに生まれた。高校時代にペットショップでアルバイトしたのがきっかけでポールと出会う。彼女は男前の公認会計士に夢中になった。彼女の卒業アルバムにはこう書かれている。
 「一番の夢は、ポールと結婚して週に2回以上デートすること」
 彼女はヨーク大学とトロント大学に入学できたにもかかわらず、それを蹴って動物病院に就職した。もうポールのことしか考えられなかった。

 (2) セックスと殺人とビデオテープ
 ポールは過剰な性欲を持て余していた。カーラだけでは十分満たされなかった。今やポールの性奴と化したカーラは、彼のために女を調達した。その中には妹タミーの友達も含まれていた。また彼女はポールが「スカボロー・レイピスト」であることを知ったうえで、その犯行を幇助していた。犠牲者の一人が現場でビデオを撮影する女を目撃しているのである。
 更に驚くべきことに、カーラは妹のタミーまでも差し出した。1990年12月23日、自宅の地下室でタミーとビデオを見ていたカーラは、彼女のカクテルに動物用の睡眠薬を混入した。彼女は、自分が処女でなかったことでポールを失望させたのを残念に思い、クリスマス・プレゼントとして妹の処女を差し出そうとしたのである。タミーは昏睡状態に陥り、ポールに後ろから前から陵辱された。カーラはいつものように撮影していた。ところが、事が終わるとタミーは息をしていなかった。吐瀉物を気管に詰まらせ窒息したのである。意図していなかったとはいえ二人は最初の殺人を犯す。しかし事故として処理され、法的責任を問われることはなかった。

 (3) とめどない殺人
 タミーの死は二人にある一線を越えさせた。また同時に絆を与えた。もう別れることはできないのである。二人は1991年6月29日、ナイアガラ・オン・ザ・レイクで結婚式を挙げた。カーラの夢がかなった瞬間である。馬車に乗り、幸せそうに結婚写真を撮影しているそのとき、ギブソン湖畔ではレスリー・マハフィ(14)のバラバラ死体が発見されていた。ポールがレイプした後殺害し、カーラがセメントに漬けて遺棄したのである。1992年4月30日にはクリステン・フレンチ(15)の全裸死体がバーリントンの排水路で発見された。彼女は13日にも渡り拷問された挙句殺されたのだった。

 (4) 発 覚
 この頃にはポールは会計事務所を辞め、アメリカからの酒や煙草の密輸で生計を立てていた。やがてカーラへの暴力が始まった。彼女が殺されるのも時間の問題だった。
 1993年1月5日、瀕死の目に遭ったカーラは命からがら逃亡し、警察に通報した。「スカボロー・レイピスト」事件の容疑は43件にも及び、これに加えてレスリー・マハフィーとクリステン・フレンチの殺害を立証するとなるとカーラの証言は不可欠だった。トロント市警は彼女に司法取引を迫り、その結果懲役12年という軽い刑が宣告された。ところが、その後決定的な証拠である犯行ビデオテープが発見された。カーラの証言だけがポールを有罪にする唯一の証拠ではなかったのである。

 (5) 裁判と世間の関心
 カーラの裁判については全面的に報道が規制された。その根拠は「続くポール・ベルナルドの公正な裁判の確保」だったが、本当は「司法取引の隠蔽」だったと思われる。ポールの弁護人はこの旨を目敏く指摘し抗議したが、結局、報道規制は撤回されなかった。
 かくしてカナダ中が注目しているにもかかわわらず、カナダ人はその内容を知らないという異例の事態となった。報道規制はアメリカのメディアには及ばないので、カナダ人は国境を越えてアメリカ版「ニューズウィーク」を買った。文明の利器インターネットもこの騒ぎに一役買った。野次馬どもの興味の焦点は「殺人・レイプビデオは存在するのか」であり、「日本のヤクザが買った」などとまことしやかに論じられた。 辞任したベルナルドの元弁護士ケン・マレーは、証拠のビデオテープをすぐに引き渡さなかったため児童ポルノの容疑で起訴されたが、2000年に無罪となった。
 カナダ当局は2001年、ビデオテープは将来使用される見込みがないと判断し、被害者が拷問されレイプされる様子を撮影した6本のビデオテープの破壊を命じた。
 だがスティーブン・ウィリアムズは、「検死」という番組を製作しているホーム・ボックス・オフィス社にビデオの若干の部分を売却した。彼はまた、テープが高価な値段で地下市場において売買される可能性を示唆した。
 主犯のポール・ベルナルドは1995年、終身刑を宣告された。カナダは死刑を廃止していたからである。
 2004年には映画「カーラ」が製作されたが、オンタリオ州首相ダルトン・マギンティはボイコットを呼びかけた。

写真左:プールサイドで遊ぶポールとカーラ。
写真右:3人の犠牲者。左からタミー・ホモルカ、レスリー・マハフィ、クリステン・フレンチ。


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元メディア王コンラッド・ブラック氏に有罪判決 [犯罪・事件]

 2007年7月13日、シカゴの陪審裁法廷は元ホリンジャー・インターナショナル社最高経営責任者(CEO)コンラッド・ブラック被告に対し、郵便詐欺、司法妨害の計4件の容疑について有罪、脅迫、送信詐欺、脱税など9件の容疑について無罪を宣告した。被告側弁護団は控訴した。

 ブラック被告はアメリカの出版社に自分がオーナーの傘下グループを売却する際、買い手が売り手に渡し契約後同様の会社を設立しないと約束させる「競争禁止供託金」260万USドルを会社に入金する前に着服。詐欺、横領を謀り当時の取締役3人にも割り当てた罪でホリンジャ・インターナショナル社から訴えられていた。
 さらに2005年、警察から禁じられていたにもかかわらずブラック氏自らトロントの元オフィスに出向き、証拠隠しのため13箱の重要書類を運び出す司法妨害を行った。その一部始終はビデオカメラに収められていた。

 ブラック氏は1944年モントリオールに生まれた。当時父親は大手醸造会社兼複合企業のトップであった。翌年家族はトロントに移り、ブライドルパスにある豪邸で、幼少から召使やナニー、運転手つきの富豪の家に育つ。
 10代の頃には通っていたアッパーカナダ・カレッジで期末試験の問題を入手し、級友に売ったことが発覚して放校処分となった。25歳でケベックの地方紙の買収に始まり、メディアへのビジネス欲をみせる。
 1976年に両親が他界すると財産と会社を引き継いだが、84年オーナーであったスーパーマーケットのドミニオンを売却したときも従業員の年金用基金に手をつけたと訴えられている。
 その翌年からイギリスにある数社の新聞社を買い上げていく。90年代中ごろには105紙あるカナダの日刊新聞社のうち59紙を買収し、新聞グループ会社ホリンジャ・インターナショナルのトップは、ついに世界で3番目に大きい新聞王となった。
 彼の2番目の妻、イギリスの元ジャーナリスト、アミエルさんには不正な金で60万ドルもする真珠のブローチや260万ドルのダイヤモンドの指輪をプレゼントしている。また各界の有名人を招き、巨費をはたいてマンハッタンでアミエルさんの誕生日パーティーを開いたこともある。

 今回アメリカの裁判所が下した評決は、カナダの服役システムや刑期に比べてかなり厳しい。3件の郵便詐欺ではそれぞれ5年、司法妨害では最長20年の禁固刑と100万ドル以下の罰金刑が加えられる可能性がある。
 アメリカとの刑務所移動システムを使ってカナダの刑務所に移り、刑期の3分の1に到達したら仮釈放が認められる場合もあるが、ブラック氏の場合はそうもいかない事情がある。
 ブラック氏は新聞ビジネスを広げ、サッチャー元首相との親交が深いことから、イギリス上院の「一代貴族」に任命されている。だがクレチエン首相は「外国で貴族とされる者はカナダ市民権を保持すべきではないという1919年からの伝統的決議を変えることはできない」と主張し、裁判に発展したがブラック氏は敗訴。カナダ市民権放棄を余儀なくされた。移民局も「外国で罪を犯している人をカナダに戻すことはできない」とコメントしていることから、ブラック氏のカナダ市民権再取得は絶望視されている。


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エルンスト・ツュンデル、ドイツで有罪判決 [犯罪・事件]


 かつてカナダ在住でドイツに送還されたホロコースト否定論者、エルンスト・ツュンデルがドイツの法廷で有罪判決を受けた。
 彼は刑法第130条の「ホロコースト不敬罪」ではなく、刑法第131条「人種的憎悪の煽動」によって起訴され、2007年2月マンハイム地方裁判所で懲役5年の有罪判決を言い渡された。

 ツュンデルの思想は、と学会編「トンデモ本の世界」でも紹介されており、「北極には大きな穴があり、地球の内側にはナチスの残党が住んでいて、UFOはそこへ行くナチの交通手段である」と主張している。彼は地球内部のナチスの国に行く資金を集めるため、カギ十字の入ったフリスビーを通信販売していた。


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ドンネリー一家がTVドラマに [犯罪・事件]


 NBCは2007年2月26日からTVドラマ「ブラック・ドンネリーズ」を放送する。
 これは1880年にオンタリオで起きたドンネリー一家殺害事件を翻案したドラマで、オンタリオ州ロンドン出身のプロデューサー、ポール・ハギスは、番組制作にあたり郷里に伝わるドンネリー一家の史実を参考にしたという。

 史実ではオンタリオに移住したアイルランド系8人兄妹だったドンネリー一家は、ドラマではニューヨークに暮らすトミー、ジミー、ケビン、ショーンのアイルランド系四兄弟という設定となり、史実におけるアイルランド系のホワイトボーイズとブラックフットの抗争は、アイルランド系とイタリア系の抗争としてわかりやすく翻案されている。
 主人公のトミー・ドンネリー(史実ではウイリアム)役はジョナサン・タッカー、ヒロインのジェニー・ライリー(史実ではマーガレット・トンプソン)役はオリビア・ワイルドが演じる。

 ドンネリー一家の史実については、http://bluejays.ld.infoseek.co.jp/ 第1章を参照。

 
 
写真上:右からジェニー・ライリー(オリビア・ワイルド)、トミー(ジョナサン・タッカー)、ジミー(トム・ガイリー)、ショーン(マイケル・スタール=デビッド)、ケビン(ビリー・ラッシュ)。
写真下:ポール・ハギス。


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「女性49人を殺害」ロバート・ピクトン被告の公判始まる [犯罪・事件]


 バンクーバー一帯で1990年代以降、60人以上の売春婦や麻薬常習者の女性が行方不明になっており、02年に養豚業のロバート・ピクトン被告の犯行が発覚、26人に対する第1級殺人の罪で起訴された。

 公判は「被害者26人分の証拠をまとめて審理するのは、陪審員にとって荷が重い」として、最初に被害者6人について審理した後に、残り20人について審理することになった。
 6人についての審理は07年1月22日に始まり、検察側の冒頭陳述が行われた。検察側は、身分を隠した捜査官(覆面捜査官)に対して、被告が「実際に殺したのは49人で、さらにもう1人を殺害、合計50人にするつもりだった」と明かした、と述べた。他にも、検察側が被告経営の養豚場を捜索した際に、「冷凍庫から、被害者のうち2人の頭部とその他の部分が発見された」と述べ、現場の凄惨な状況を明らかにした。
 「頭部は縦方向に切断されており、頭部のほかには、両手と、両足の前部が残されていた。頭部には、弾丸を受けた跡があった。養豚場では拳銃が発見され、その銃身には性的玩具が接続されていた。性的玩具からは、被告と被害者のDNAが検出された」
 現地のメディアでは、同被告の犯行に関する証拠については、「陪審員に予断と偏見を与える」として、公判開始まで報道されてこなかった。そのため、公判で初めてこの事実を知らされた遺族にとっては、相当ショックが大きかったようだ。それを表すかのように、翌23日の審理では、傍聴席には少なくとも10席以上の空席が見られた。遺族が「凄惨な事実を目にするのは耐えられない」として、傍聴を見合わせたようだ。

 翌24日の審理でも、さらに遺族にとっては耐えられない事実が明らかになっている。この日は、被告の関係者に対して検察が取り調べを行っている様子のビデオが上映された。ビデオの中で、被告が経営する農場に勤務し、被告と一緒に3ヶ月間暮らしたというアンドリュー・ベルウッド氏は、こう述べている。
 「被告は売春婦をベッドに連れて行き、後ろ手に手錠をかけた上で、首を絞めて殺害した。殺害後は遺体を家畜小屋に運び、豚に食べさせた」
 被告とは「数年来の知り合い」だというスコット・チャブ氏は、同様にビデオでこう話している。
 「被告は、女性のことを『汚い腐った豚』だと思っていて、『単なる消耗品』としてしか見ていなかったようだ」
 一方の被告は、ベッドに残された血痕などの生々しい証拠写真を見せられても、一貫して無罪を主張し続けている。

 公判はまだ始まったばかりでこれだけの凄惨な事実が明らかになっているという状況だが、まだ審理すべき被害者の数は、少なくとも43人にのぼる。まだまだ多くの事実が明らかにされそうだ。なお、カナダは1976年に死刑を廃止している。

写真上:ロバート・ピクトン被告
写真下:最初に審理されることになった被害者26人。被害者はさらに少なくともあと23人いる。


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ドーソン・カレッジ銃乱射事件 [犯罪・事件]


 1995年に自由党政権によって成立した長銃登録制度は、当時で200万ドル、現在では10億ドルもの経費を必要とした。2005年トロントの繁華街で銃撃戦が起こり、15歳の少女が流れ弾で死亡する事件を受け、保守党のハーパー党首は重大犯罪への執行猶予不適用など厳罰化を主張し、その一方では長銃登録制度廃止を公約に掲げ2006年1月の選挙に勝利し、政権を奪取した。だが過半数割れの少数政権で、野党3党が長銃登録制度を支持する状態での法廃止は困難と見たハーパー首相は、同法に銃器登録に1年の猶予期間を設ける、長銃所有者が登録を怠っても起訴の対象にしない、登録料の返金、カナダ銃器協会からRCMP(連邦警察)への管轄権の移行、予算の1000万ドルの削減などを盛りこんで改正し、実質的に骨抜きにすることを目論み、6月に改正案を国会に提出した。
 地方住民や狩猟愛好家は、登録制度は合法的銃保持者を規制するものであって、非合法的銃規制や犯罪減少につながらないとして現銃器法に反対している。いっぽうケベック州や大都市では賛成派が多数を占めているが、一般に保守党の支持者は地方が多い。
 このような状況下で9月13日、モントリオールのドーソン・カレッジで銃乱射事件が起こった。

 2006年9月13日午後1時前(現地時間)、モントリオールのドーソン・カレッジで男1人が銃を乱射、同校の女子生徒アナスタシア・デ・ソウサさん(18)が死亡、20人以上が負傷した。黒のトレンチコートに身を包んだ犯人は、学内のカフェテリアに乱入、持っていた銃を乱射し、警察官との銃撃戦の後自分の頭部を撃って自殺した。なお犯人の銃は、合法的に所持していたものだった。
 同校は一時閉鎖となり、近隣のオフィスワーカー、学生も避難、道路の封鎖と地下鉄の運休措置が取られ、携帯電話もつながりにくくなるなどの影響がでた。州の献血センターでは、同事件の負傷者のため多量の血液が必要となり、市民に献血を呼びかけた。
 犯人のキンビヤ・ギル(25)はインド系で、モントリオール北部にあるラバル行政区ファブリベルに両親と同居していた。彼は「バンパイア・フリーク」というサイトにトレンチの名前で日記を公開し、「トレンチが死の天使と分かるだろう」などと書き、銃で威嚇している格好の写真を掲載していた。

 9月18日に始まった国会は、ドーソン・カレッジ銃乱射事件被害者への黙祷で始まり、銃規制法案とカナダ軍のアフガニスタン派兵の是非を巡る激しい論戦が繰り広げられ、命の尊さが問われる会期となった。ハーパー首相は、今回の惨事は現行銃器登録制度が機能していないことが原因だとし、登録制度を廃止する代替法案を提出している。いっぽう自由党のビル・グラハム暫定党首は、答弁時間の大半を費やしてこの問題の反対答弁を行い、政府が銃器登録制を正しく理解していないこと、武器商人の既得権益を擁護していることを主張した。しかし首相は、暴力犯罪に対する厳罰化、RCMP副総監と精神不安定者の武器所持を防止する施策について協議を挙げ、政府の政策の妥当性を強調した。

写真左:ウェブサイトに掲載されたキンビア・ギルの写真。
写真右:キンビア・ギルの遺体。


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クリフォード・オルソン受刑者の仮釈放申請を却下 [犯罪・事件]

 2006年7月18日モントリオールの刑務所で、連続殺人犯クリフォード・オルソン受刑者(66)の仮釈放に関する公開聴聞が行われ、却下された。彼は25年の懲役を経て仮釈放を申請をしていた。仮釈放委員会は「性的サディストで精神に異常を来たしており、再犯の恐れがある」と却下理由を述べている。

 オルソン受刑者はバンクーバーに生まれ、10歳から窃盗、強盗、住居侵入等を繰り返し、刑務所を出たり入ったりを繰り返した。彼はいつも他の囚人からいじめを受けるので、彼が死なないように刑務所を何度も移動させられたという。
 刑務所でレイプ殺人犯ゲイリー・マルコーと知り合い、レイプ殺人という新しい欲望に目覚めた彼は、出所すると1980年から81年までの7か月間に、ブリティッシュコロンビア州で少年・少女11人をレイプして殺害した。彼は逮捕後、まだ見つかっていない犠牲者の遺体の所在を教え捜査に協力する報酬として、1体につき1万ドルを要求して11万ドルをせしめ、さらに「あと20人殺しているが10万ドルにまけておく」とさらなる報酬を要求した。オルソン受刑者は9年前にも仮釈放を申請しているが、却下されている。
 政府は刑法を改正し、連続殺人犯には15年ごとの再審の権利取得制度を廃止した。しかし現行のカナダ刑法では、被告には2年ごとに仮釈放の申請権が与えられる。81年に16歳の継息子を拉致殺害された犯罪被害者救済センター長は、「このままでは、いずれオルソンが保釈されてしまう」と不安を募らせている。カナダでは、これまでに58人の殺人犯が仮釈放されている。


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カルガリー事件の藤井受刑者、国外追放に [犯罪・事件]

10483601.jpg 2001年にアルバータ州カルガリーで起きた乳児放置死事件で、長男ドミニク・ブラウン君(当時15ヵ月)と長女ジェミニ・ブラウンちゃん(同3ヵ月)を餓死させた日本人、藤井理絵受刑者(28歳)が2006年5月、国外追放された。
 1997年4月に英語学習のためカナダに入国した藤井元受刑者は、カナダ人男性ピーター・ブラウン氏(当時22歳)と内縁関係になり、2000年2月に長男ドミニク=リュー、2001年2月に長女ジェミニを出産。2000年10月にビザが失効した後も同市に不法滞在していたが、ブラウン氏と別れ、新しい恋人C.N.氏との交際が始まった。そして藤井元受刑者は2001年5月8日、子供をアパートに残したまま同州コクレーンのC.N.宅を訪ね、10日後に帰宅すると子供たちは餓死していた。藤井元受刑者はジェミニちゃんの遺体をゴミ袋に入れゴミ集積所に捨て、ドミニク君の遺体は部屋に隠していたが、アパートの管理人が6月5日、立ち退きを通告するため部屋を訪れた際、腐臭を感じたため警察に通報し、翌日逮捕された。ch02062c.jpg
 ブラウン氏によると、2人の4年間の関係は4か月前に終わっていたという。藤井元受刑者は、両親から毎月2000カナダドルの仕送りを受けていたが、これは物価が安いカナダ(アルバータ州は州消費税がない)では充分に生活していける額である。だが同棲していたブラウン氏は働こうとせず、彼女に仕送りされるお金で生活し、そのほとんどをドラッグやギャンブルに使い、さらに藤井元受刑者を家庭内暴力で精神的・肉体的に虐待した。その後藤井元受刑者は引っ越して、ブラウン氏に居場所を知らせず、子供たちにも会わせないようにしていた。
 なおブラウン氏は窃盗罪など複数の容疑で指名手配されており、カルガリー警察に逮捕されている。

 2002年9月9日、故殺罪で起訴された藤井被告は、懲役8年の実刑判決を受けた。藤井被告は既に15か月間収監されており、その期間の2倍分が差し引かれるため、実際の服役は残りの5年6カ月である。マーチン裁判長は公判で、ブラウン氏もこの事件に対して道義的責任を負うに値すると述べし、「もしも『人間の良心』についてこの裁判が行われるなら、彼はおそらく彼女とともに被告席に座ることになっていただろう」と述べた。

 藤井被告は6月に行われた審問で、己の非を認め、謝罪した。
 「自分が幼い子供たちにした行為が、どんなに残酷でむごたらしいものであるか理解しています。私は間違っていました。なぜそんなひどいことをしてしまったのか、自分でも分かりません」
 英語を学ぶため渡航した憧れのカナダで待っていたのは、予想もしない現実だった。暴力と貧困と子育てに疲れ果て、新しい男性との出会いで全てを忘れようとした彼女にはもはや、子供たちをアパートに10日も放置すればどうなるかという、正常な判断力は失われていた。

ch02062d.jpg 公判のためカナダを訪問していた藤井被告の両親は、声明文の中で、娘をサポートしてくれたカルガリーの人々に感謝の意を表すとともに、人々に不安を与え迷惑をかけたことを謝罪した。また、カナダに暮らす日系市民の印象を傷つけたとして、日系社会の人々へのお詫びの言葉も書かれていた。両親は前年のうちにドミニクちゃんの葬儀を行い、灰を日本に持ち帰っているが、遺体が発見されていないジェミニちゃんについては、日本に帰る前にぜひ追悼式を行いたいと語った。
 両親は、自分たちの娘に2人も子供がいたことをまったく知らなかった。父親は、事前に2人の孫の存在と娘のトラブルを知っていれば、なんとか力になってあげられたものを、と語っていた。23歳の娘は、両親の反応を恐れて言えなかったようだが、両親は喜んで家族に迎えたのに、と語っている。

 藤井元受刑者はその後エドモントン女子刑務所に収監されていたが、昨年、拘留期間も含め受刑年数が3分の2を経過したために開かれた仮釈放聴聞会で、国外追放措置を希望。帰国後は心理カウンセリングを受けたり、ビジネススクールに行きたいと語った。


写真上:藤井理絵元受刑者。
写真中:藤井理絵元受刑者とドミニクちゃん。
写真下:ジェミニちゃん。

(※日本の多くのメディアでは犯人の写真は掲載されていませんが、成人の殺人犯であり、カナダで実名・顔写真が報道されていることから、当ブログで掲載しました。悪しからずご了承下さい。)
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