カナダのコンビニ大手がセブン&アイ買収へ [日本]
セブン&アイが経営するセブンイレブンは、北米のそれとは様相が異なっている。北米ではコンビニエンスストアとは、主に急いでポテトチップスやチョコレートを買うための店で、クシュ=タールは全店にガソリンスタンドが併設されている。だが日本の「コンビニ」は、小さなスーパーマーケットに近い。食品のほか家庭用品、トイレタリー、ATM、公共料金支払い、宅配便の発送と受け取り、住民票の交付まで含んでおり、地域のインフラですらある。食品にはおにぎりやサンドイッチ、調理済みのパスタ、フライドチキンや肉まんなど多彩なラインアップがあり、日本のコンビニは外国人訪問客の間でブームを巻き起こしている。
セブン&アイはコンビニのほか、スーパーのイトーヨーカ堂、セブン銀行、タワーレコード・ジャパンなどを保有している。だが投資家からは、不採算事業を売却しコンビニ経営に注力するよう圧力をかけられており、2023年百貨店のそごう・西武を売却し、祖業のイトーヨーカ堂も2023年以降で33店舗の閉店を発表している。
クシュ=タールは、売り上げの74%をガソリン販売が占めており、コンビニ売り上げは25%しかない。セブン&アイの井阪隆一社長は「全店ガソリンスタンド併設。レベル的に小売部門が強くない」「日本的なコンビニを世界に、とは相容れない」と評した。セブン&アイの匿名の関係者も「もう5年前から話が来ている。その間2回検討した。先方は今回100%完全買収を求めている。セブン&アイの北米事業に関心を持っていて、日本にはあまり興味がないと言っているようだ。シナジーも何もあったものではない」と明かした。
買収価格は公表されていないが、セブン&アイは申し込みを「友好的で強制力のないもの」と述べ、「両社の顧客・従業員・フランチャイズ・株主のためになる互いに合意可能な取引」を目指すと語った。
クシュ=タールは1980年、ケベック州ラバルで1店舗を創業したのが始まりだ。2001年にアメリカ中西部のコンビニを買収してアメリカに進出し、2003年にはサークルKを買収して、コンビニとガソリンスタンドの世界的チェーンに拡大した。コンビニは31の国と地域で1万6700店舗、アメリカで7100店舗、カナダで2100店舗を展開する。企業価値は580億ドルとされる。
セブンイレブンは1927年、冷蔵庫を冷やすための氷を売る店としてテキサス州ダラスに生まれ、やがて卵・牛乳・パンも売り始めた。営業時間が午前7時から午後11時までだったことが、その名の由来である。日本では1974年、イトーヨーカ堂がライセンス契約を結び、日本1号店を江東区豊洲にオープンした。 社内ではコンビニ事業に懐疑的だったが、失敗した場合は鈴木敏文専務が株式で穴埋めするという条件で了承を得た。
鈴木は、アメリカとの商習慣や食習慣の違いから、おにぎりや弁当の販売、POSシステムの導入など日本独自の経営を志向し、1991年にはセブンイレブン・ジャパンが米国セブンイレブンを買収した。現在は20の国と地域で8万5800店舗、アメリカで1万3000店舗、日本で2万1000店舗を展開し、従業員数15万7177人、1日の訪問客は6360万人となっている。
このニュースに株式相場は敏感に反応し、19日の取引ではセブン&アイ株は23%も値上がりして、2161円のストップ高で終えた。これは株式の100%取得に、5兆6000億円(約380億ドル)かかることを意味する。だが翌日は一転急落し、10%安で取引を終えた。クシュ=タールは具体的な出資比率や株式の取得方法を示してなく、買収の実現は困難との見方が広がったと見られる。
グローバルデータ社のニール・ソーンダース常務は、連邦取引委員会の調査は免れないと語った。
「アメリカのコンビニ市場において、セブンイレブンのシェア14.5%に対し、クシュ=タールのシェアが4.6%。2社の統合により、市場の約5分の1を支配することになる。」
「このレベルの独占は、間違いなく連邦取引委員会による詳細な調査をひき起こすだろう。」
クシュ=タールは2021年、フランスのスーパー「カルフール」を買収しようとしたが、食料安全保障を危うくするという理由でフランス政府が拒否権を発動したため、断念している。
セブン&アイとクシュ=タールは2020年には、アメリカのガソリンスタンドチェーン「スピードウェイ」の買収で争っている。結局前者が210億ドルで買収した。
彼はまた、日本企業の買収には特有の複雑さがあると指摘した。
「日本は買収をより容易にするための法改正をしたが、多くの日本企業は非常に用心深く、変化に抵抗を示す。それはセブン&アイにおいても、複雑な経営システムが買収の妨げとなるだろう。」
カナダのメディアは天皇退位問題をどう報じたか [日本]
全国的にテレビ放送された発言では、戦後の憲法において与えられた地位である「国の象徴」として、天皇の任務を減らすことには限度があるとも語った。
公共放送局NHKは先月、心臓の手術と前立腺癌の治療を受けた明仁が、近代日本では例のない退位を望んでいると報じた。
かつては神聖視されていた天皇は、憲法で国と国民の統合の象徴と定義され、政治的権限がない。明仁は、退位したいと率直に述べるには至らなかった。それは、政治干渉と解釈されることがありえるからだ。
「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」と、彼は述べた。
世論調査は、大多数の普通の日本人は退位したいという天皇の要望に同意することを示しているが、そのようなやり方は法律の改正を必要とする。
明仁は近年公務を減らし、56歳の徳仁皇太子に任せている。だがそれにも限度があったと、彼は語った。
彼はまた、自分が機能を果たせなくなったとき、徳仁が摂政として引き継ぐことができる現行システムに則ることが適切かどうかに、疑問を投げかけるようだった。
「天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」と、明仁は述べた。
安倍晋三首相は、天皇の年齢と彼の公務の負担からすれば、どんな措置をとることができるか考えることが必要だと語った。
退位についての考えは、伝統主義者にとって憎悪の対象である女性の即位およびその子孫への皇位継承に議論が発展することを懸念する、安倍保守派の支持母体から反対をひき起こした。
徳仁には、娘(訳者注※名が記されていない)がただ1人いる。男性だけが皇位を継承できるので、徳仁の後の皇位は彼の弟アキシノ親王(訳者注※正しくは文仁親王)に、それから9歳の甥悠仁に渡る。
退位に関する議論に集中することは、保守派が第二次大戦惨敗の象徴とみなす、アメリカに起草された平和憲法を改正するための安倍の政治的エネルギーを逸らすことを、彼らは懸念する。
明仁は、その名において戦争した彼の父裕仁の死後、皇位に就いた。彼は海外へ旅行する際、アジアでは対立をなだめようとし、君主制を人々により近いものにしようとした。
ビデオ・メッセージで語ることは、明仁にとって2度目だった。最初は2011年3月、大地震と津波と核危機が東北に打撃を与えたときである。
(訳者注※皇族の呼称については、原文のまま諱を使用した。)
2012年衆院選に見るカナダとの共通点 [日本]
進歩保守党は王党派が多いため、歴史的にケベックで嫌われており、西部を基盤にしていたが、1984年総選挙でケベック人マルローニを党首に立て、議席の75%を獲得する圧勝を収めた。だが、歴史的に対立してきた西部とケベックの両方のニーズを満たすことは、容易ではなかった。マルローニ首相はしだいに、ケベック優遇を明らかにしてゆく。1982年憲法に署名を拒否したケベック州を憲法体制に取り込むため、彼は憲法に「ケベックの独特の地位」を盛り込む憲法改正案を作成したが、西部を中心に強い反発にあい、頓挫した。するとケベック州の議員は離党して、独立派の新党「ケベック連合」を旗揚げした。西部でも「西部のための保守党」を称する改革党が結成され、ケベックと西部の両方から見捨てられた進歩保守党は、1993年総選挙でわずか2議席の惨敗を喫した。
1984年に政権を喪失した自由党は、政権を奪回するため「なぜケベックを失ったのか」という問題に向き合おうとした。だが問題はやがて、党首をすげ代えればいいのだという権力闘争へと変貌して行った。保守党が二つに分裂した状態で臨んだ1993年総選挙で、自由党は圧勝し政権返り咲きを果たす。分裂した保守党に対し、自由党は唯一の全国政党で、議席の35%を有するオンタリオ州でそのほとんどを獲得した。オンタリオの進歩保守党支持者は、右翼の改革党を嫌い、自由党に投票したからである。西部は依然として改革党の根拠地だったが、議席が少ないので捨ててかかっていた。自由党政権はいつまでも続くかに見えた。
2003年、二つの保守党が合同しカナダ保守党が結成されると、改革党を嫌っていたオンタリオの進歩保守党支持者たちは、中道寄りマニフェストを採択したカナダ保守党を支持するようになった。90年代に選挙を楽勝してきた自由党は、議席の35%を持つオンタリオでの圧倒的な支持に胡坐をかき、自分たちがなぜケベックや西部で嫌われ、どうすれば支持を回復できるかという問題に、結局向き合おうとしなかった。カナダ保守党は、進歩保守党の地盤を全て回復したし、西部発祥の新民主党も、90年代に東部への浸透に成功し、2011年総選挙ではケベックで第一党となった。オンタリオは、90年代にはほぼ全部が自由党の議席だったが、北部は新民主党の地盤に変わり、トロント周辺部は保守党の地盤に変わり、自由党はいまや、MTV(モントリオール・トロント・バンクーバー)でしか議席を獲れない典型的な都市型政党になっている。
今の日本の状況は、マルローニ時代のカナダによく似ている。
第一に、与党が過大な議席を有している。過大与党は、党内のセクトが相反する利害を主張し、首相の統制が効かなくなりがちである。民主党政権に、100人の小沢グループがいたようなものである。
第二に、大勝の勢いをかって憲法改正にとりかかり、失敗すると命とりになる場合がある。不要な対立を与党内に巻き起こし、党分裂を招くと大惨事になる。
第三に、相手の失敗につけこみ、前回なぜ支持を失ったのかという敗因に向き合わないでいると、いずれ有権者に見捨てられる。自党に投票が集まったのは、消極的支持かもしれない。
在日カナダ大使館査証部が閉鎖 [日本]
注意: 平成24年5月1日付にて在日カナダ大使館の査証部が閉鎖される事になり、新しい申請をこちらでは受け付ける事が一切出来なくなりました。全ての査証・移民等業務は在フィリピン・カナダ大使館に移行します。
査証・移民に関して
重要なお知らせ:在日日本カナダ大使館(東京)の査証部は閉鎖いたしました。全ての査証業務は在フィリピンカナダ大使館(マニラ)に転送されました。
在フィリピンカナダ大使館は日本人および日本在住の方々全ての査証業務を引き継ぎました。
日本カナダ検定協会が、第一回カナダ検定を実施 [日本]

http://www.canada-kentei.org/4test.htm
試験日・時間 日程 2012年7月1日(日)
時間 (説明) 10:00~10:10
(試験) 10:10~11:40 (90分)
実施級 3級のみ
受験料 検定試験のみの場合 3,500円(税込み)
事前対策セミナー付きの場合 5,000円(税込み)
申し込み期間 4月2日(月)~ 6月18日(月)
受験資格 年齢・国籍等の制限無く、どなたでも受験可能です。
試験会場 東京都内
カナダ大使館、被災者の留学支援プロジェクトを発表 [日本]
15歳以上30歳以下の日本国籍者で、震災で家族・家・仕事などを失った方または原発事故のため避難している方150名を対象に、往復航空運賃・1か月の語学学校授業料・旅行保険代金と、ホームステイを含むプログラムではその代金を支給する。
株式会社サマンサタバサ・ジャパンリミテッドが1500万円を寄付し、カナダ大使館と共同で設立した留学基金「カナダ留学ホープ・プロジェクト」は、以前から行っていた日加リーダーシップ基金の特別カテゴリーとして設けられたもので、復興の要となる被災地の若者に、カナダ留学を通しグローバルな視野を持ってもらい、将来世界に羽ばたく日本の希望になってもらおうと企画された。
記者会見でジョナサン・フリード駐日大使は「カナダ大使館は震災後も日本に留まり、2万5000枚の毛布を避難所へ配り、線量計を必要としている方々へ配るなどの支援を続けてきました。今回は、支援の一環として日本の再建のためこのプロジェクトを立ち上げました」とコメントした。
オンタリオ州ハミルトンで2年間留学した経験を持つ、サマンサタバサの寺田和正会長は「僕自身の希望を作ったのもカナダでした。私自身は、広島県で生まれたのですが、留学をしたことで様々な人と出会い、今までにない経験をすることができました。留学した時に、ソニーさんやトヨタさんなど日本の企業が世界で活躍しているのを見て、僕もいつか実現すると世界を目指す希望の光になりました」「サマンサタバサグループとして何ができるのか、3月11日以降ずっと考えてきました。その中で浮かんできた言葉は、希望でした。希望を感じて貰えるような支援の仕方を考えた結果このプロジェクトに行き着きました」と語った。
同社では「サマンサタバサ・チャリティキャンバスバッグ」(9450円)を発売し、売上の全てを「カナダ留学ホープ・プロジェクト」に寄付する。
「サダコと千羽鶴」の著者コアが死去 [日本]

コアは1922年、サスカチュワン州カムサックに生まれた。高校時代に日系移民の同級生と親しくなったことから、日本食・書道・折り紙など日本文化に強い関心を持つようになった。
サスカチュワン大学を卒業後、新聞記者として広島を訪問した際、平和記念公園にある「原爆の子の像」に目をひかれ、そのモデルとなった少女に興味を抱いた。
そのモデルである佐々木禎子は、被爆が原因で白血病にかかり、病院で闘病生活を送っていたが、千羽鶴を折れば元気になると信じて折り続けた。「サダコと千羽鶴」によると、禎子は644個折った時点で12歳でこの世を去った。そして彼女の級友たちが残りの鶴を折って1000個揃え、彼女の墓前に捧げたという(禎子は実際には2000個以上折った)。さらに彼らは資金を集め、禎子と被爆者を覚える「原爆の子の像」の建造を実現させた。
コアはこの逸話に感動し、1977年「サダコと千羽鶴」を出版した。これはカナダやアメリカで学校の副読本に採用されるなど、世界中で幅広く読まれた。2010年5月には、ニューヨークで禎子の兄佐々木雅弘さんと面会した。
写真:佐々木雅弘さん(右端)と面会するエレノア・コア(左端)。
ワーキングホリデー協会廃止へ [日本]
同協会は、「青年の国際交流を促進する」という名目で、実際には労働省の天下り団体として設置されたものである。近年は、サポート会社と協賛するなど「業者のための協会」となっており、詐欺業者を出入りさせるなど、公的機関としての機能は事実上失われており、筆者のもとにも多数の苦情が寄せられていた。
同協会が行ってきた数々の不正については日を改めて述べることにし、今日は同協会およびワーキングホリデーニュースの報道を掲載する。
https://ssl.jawhm.or.jp/cgi-bin/whmem/news.cgi?mode=topnewss&no=40
この度、社団法人日本ワーキング・ホリデー協会は政府の財政支援の廃止にともない、協会運営が困難となり、近日解散の運びとなりました。
このため、メンバー登録者の窓口サービス(東京本部)及び電話対応は、誠に勝手ながら6月19日までとさせて頂きます。インターネットを利用したウェブサービスは7月末日までいたします。
新規の相談希望者につきましては、6月3日以降受け付けませんので、他のサポート会社等をご利用下さい。なお、語学講座は6月、7月は予定通り実施いたします。
これまで長年にわたるお力添えを頂きながら、突然の解散でご迷惑をおかけする結果となり、まことに申し訳なく心よりお詫び申し上げる次第でございます。まずは略儀ながら書中をもちまして解散のご挨拶を申し上げます。
2010年6月
社団法人日本ワーキング・ホリデー協会
専務理事 粟野賢一
http://www.whic.jp/blog_news/cat9/603.html
厚生労働省の外郭団体として運営されていた公益法人「社団法人 日本ワーキング・ホリデー協会」(通称:ワーホリ協会)が6月17日をもって窓口サービスを終了し、解散する事が明らかになりました。ウェブサービスについては7月末日で終了する事になりました。
同協会についてはワーキングホリデーに関する唯一公的機関という立場を強調して活動をしていましたが、近年は縮小傾向が続き、福岡や札幌などににあった事務所の閉鎖、そして今年4月には主力オフィスであった大阪支所が閉鎖されたばかりでした。
今回の解散について同協会では専務理事名の発表で「政府の財政支援の廃止」を理由に挙げており、昨今の「事業仕分け」の影響を受けた結果としての解散であるように述べている一方、同法人の役員ポストは所轄官庁の天下り先ポストとなっており、天下り先への財政支援が厳しく見直された数年前より既に財務的に厳しい状況に陥っていたという指摘をする意見もあります。
同協会の廃止によりフランスなど同協会のサービスを窓口にすることによって、ビザ申請希望者からの直接の問い合わせを避けてきた国について、今後どのような形での対応が行われるのかが注目されます。
また、今回の解散発表直前まで会費を集めての会員募集を継続していた同法人に対しては批判が集まる可能性も指摘されており、今後の動きが注目されます。
なお、現在実施されているワーキングホリデー制度は日本国政府と対象各国政府との2国間の協定に基づくものであり、今回の「ワーキング・ホリデー協会」の解散によって基本的に影響を受けるものではありません。
ワーキングホリデー協会、大阪支所を閉鎖 [日本]
同協会は一昨年に名古屋、仙台、札幌の3つの事務所を閉鎖、昨年には福岡の支所を閉鎖しており、今回の大阪支所の閉鎖により、今後の運営は東京にある本部のみで行われることになる。
支持基盤を見捨てた党に未来はない [日本]
●利権バラ撒きから構造改革へ、地方密着型から都市型へ
田中・鈴木・竹下・森など、戦後の首相は地方出身者が多いと指摘されている。自民党は、国から貧しい地方に金をバラまくことで地方で支持されてきた。中選挙区制では1票の格差が大きく、地方の議席配分が過大になっており、地方では都市部より少数の得票で当選することができたのだ。ところが小選挙区制に移行し都市部の議席が増えると、以後自民党は単独で過半数を獲れなくなる。地方利権政党である自民党は、この危機を公明党との連立で凌いだ。
だが高度成長はとうに終わり、安定成長も今は昔、不景気は長く続き、少子高齢化の進行によって社会保障費の財源不足が深刻化すると、国の金を地方にバラまく自民党政治は、財政負担が重く続行困難となった。
無党派層が自民支持層を上回り最大勢力に達したのは、93年ころである。派閥の論理では政権を握ることのできなかった小泉純一郎が、この「宝の山」を手に入れれば選挙を制することができることに着目したのは、自民党の大きな転換点となった。
彼の「自民党をぶっ潰す」発言に国民が喝采するのを見て、自民党重鎮たちは党の将来を不安視しなかったのだろうか。郵政民営化をはじめ、次は農協、その次は医療と、地方の利権にメスを入れ、財政負担を切り捨て、都市型政党への生まれ変わりを見せた小泉首相は国民の圧倒的な支持を受けたが、296議席の大勝利の中、自らの支持基盤を切り捨てた党の未来を警告する者は少なかった。小泉首相が衆院選後1年で政権を投げ出すと、その後3人の総理・総裁が、構造改革路線と従来の利権誘導路線の間を右往左往することになる。
経済のグローバル化が、自民党の上にのしかかった。アメリカの圧力による牛肉・オレンジ輸入自由化は、89年参院選において自民大敗の原因となった。95年の食糧管理法廃止により、自民党はもはや農民の味方ではなくなった。98年には大規模小売店舗法が廃止され、地方商店街は「シャッター通り」と化した。郵政・農業・漁業・建設業などの、自民党を支えた集票マシンは次々と離反した。そのうえ2005年衆院選で刺客を立てた選挙区では、今回衆院選で後援会の股裂きと、複数の保守系候補者による分裂選挙に直面し、しかも郵政票は戻って来なかった。地元に縁のないタレントが落下傘候補となる手法は、地元密着型の自民党のスタイルにほど遠かった。公明党との連立も、「比例は公明」と呼びかけることで比例当選の可能性を閉ざす結果となった。絶望的な低支持率の中、小泉元首相、河野元総裁、津島派の津島会長、瓦元防衛相らの重鎮は次々と引退を表明した。
●カナダ進歩保守党はなぜ壊滅したか
初代首相を輩出し、二大政党の一角を担ってきた進歩保守党は、1993年総選挙で壊滅し、2003年に消滅した。イギリス王党派の流れを汲み、極端な親プロテスタント政策をとってきた同党は、西部を地盤とし、フランス系の多い中部のケベック州と対立してきた。ケベック州は歴史的に自由党を支持しており、進歩保守党はカナダ建国以来1984年まで、総選挙でケベック州の過半数を制したのはただ一度しかなく、1980年にも1議席しか獲得していない。進歩保守党が戦後万年与党に甘んじていたのは、人口の24%を占めるケベック州で人気がないことが原因だった。
ところが、初めてケベック人ブライアン・マルローニを党首に据えた同党は、自由党政権が導入した、西部の地下資源に課税する「国家エネルギー計画」の廃止を西部に約束し、ケベックには自由党政権が反故にした憲法上の「特別の地位」を約束して、西部とケベックの「大連立」を実現させた。進歩保守党は1984年総選挙で、苦手のケベック州で75議席中58議席を獲得したほか、カナダ全州で過半数を制し、定数282議席の75%にあたる211議席を獲得する地滑り的大勝利を収めた。だがこれは、ケベックやカナダ全土において進歩保守党の支持が定着・拡大したことを意味してはいなかった。今にして思えば、これが進歩保守党の「終わりの始まり」であった。
マルローニ首相の公約だった憲法改正案は、「ミーチレイク協定」として具現化したが、「ケベックは独特の社会であると憲法に明記する」「憲法改正拒否権をケベック州に与える」などは、ケベックへの過度の優遇だとして世論の反発を買い、1990年ついに廃案となった。すると多くのケベック保守党員が党を見限り、ケベック民族主義の「ケベック連合」を旗揚げした。西部の保守主義者たちもケベック優遇に憤慨し、「改革党」を結成する。こうして進歩保守党は、西部とケベックの両方の支持を失うことになった。
内閣支持率が史上最低の11%まで低下する中、クラーク元首相、マクドゥーガル前外相、マザンコースキー前蔵相、ウィルソン元蔵相らの重鎮は次々と引退を表明した。そして1993年総選挙で、進歩保守党はわずか2議席の歴史的大敗を喫する。その後、保守合同を経て保守政党が政権を奪回するのは、13年後のことである。
●自民党はどこへ行く
自民党の当面の目標は、来年夏の参院選で第一党の地位を回復することだろう。だが新政権がわずか1年で大きな矛盾を露呈することは、考えにくい。新政権はマニフェスト工程表にしたがい、4月にガソリン税の暫定税率廃止、続いて高速料金無料化を実施するだろう。自民党が参院選で第一党になれなければ、自民党ブランドは地に落ち、一気に自壊することもありえる。自民党はこの際、構造改革派と利権誘導派に分裂すべきだろう。前者はみんなの党と、後者は平沼グループと連携することになろうか。
参議院で過半数割れの民主党は、自民党議員を引き抜きにかかるかも知れない。小沢氏はここぞとばかりに、自民党を潰しにかかるだろう。気がかりなのは、いつの時代も若者は過激な改革を求めてきたということだ。左翼が魅力を失った今日、清和会を支持し「保守本流」を批判してきた若者が、自民党壊滅によって極右政党に傾倒していくことが懸念される。
カナダのメディアは日本の政権交代をどう報じたか [日本]
「人々は、今の政治と与党に怒っている。我々は、人々が生活のために政権交代を求めているのを切実に感じ、政権交代のためにこの選挙を戦った」と、民主党の鳩山由紀夫代表は記者会見で語った。
メディアの予測は、衆議院480議席の3分の2に及ぶ民主党の地すべり大勝利を示した。それは麻生太郎首相の自民党大敗という、以前の予想と合致した。
自民党の菅義偉選挙対策副委員長は、1955年の結党以来10か月を除いて政権に就いてきた党が「歴史的敗北」に直面していると認めた。支配政党の敗北は、第二次大戦敗戦後日本を経済のジャガーノートに変えた自民党・大企業・官僚の三角提携関係を解消することになる。その戦略は、80年代末に日本の「バブル経済」が崩壊したとき、動揺した。
「これは、日本の戦後政治システムの終わりである。それは、一つの長い時代の終わりと、多くの不確実性があるもう一つの時代の始まりを記録する。」と、日本に詳しいコロンビア大学のジェラルド・カーチス教授は語った。
民主党とその連携党が、優越でない参議院で法案を吊るすことができるデッドロックの終わりを金融市場は願ってきた。新政権が支出を増大させるなら、株価は上がるかもしれない。
メディアの出口調査は、自民党が現有300議席から減少し、わずか100議席強を獲得することを示した。その連立パートナーである公明党(訳注※原文では“the New Komeito Party”)は、20議席前後を獲得すると予想された。
民主党は、前回総選挙ではわずか115議席だった。カリスマ的党首小泉純一郎の改革の決意に、2005年総選挙において大勝利を与えた自民党への支持は、スキャンダル、急変する政策、高齢化社会への無策のために砕かれた。しかし民主党に対する支持は、熱狂的とは言えない。
「予算の割り当ては民主党にとっては挑戦となろうが、我々は彼らに機会を与えるべきだと思う」と、レストラン経営者のクマザワ・ヤスヒロ(38)は語った。
「それがうまくいかなかったら、我々は4年以内に再び自民党を政権につければいい。」
元首相の孫である鳩山代表は、「政権交代」のキーワードを、たとえ民主党がこの60年で最悪の不況から日本を救う確信がなくてもチャンスを与えようとした有権者と共有した。
「私は、この国で今続いていることが好きではない。いろいろなことが変わらなければならない」と、民主党に投票した元医師ツダ・カズヤ(78)は語った。
民主党は、年金問題などに取り組むことに抵抗した官僚から政治を取り戻し、児童手当、農業支援に取り組むと公約した。
鳩山代表は、参議院で協力が必要ないくつかの党と連立したい語ったが、連立の形はすぐには決めないとコメントした。
「民主党は官僚支配政治から脱却すると言っているが、方針を実行するためには官僚をたくみに使わなければならない」と、駿河台大学の成田憲彦教授(訳注※学長でもある)は語った。
民主党の外交は、アメリカから距離を置くものになるので、日米同盟関係に懸念を引き起こすだろう。
「自民党敗北は、日本よりワシントンで惜しまれているだろう」と、アメリカ公共政策研究所(AEI)のマイケル・オースリンは語った。
民主党は、歴史認識でしばしば緊張するアジア諸国とより良い関係を築くと公約した。
経済専門家は、元自民党員・元社会党員・若い保守主義者によって1998年に結成された民主党の財政支出が、財政赤字を増大させ、国債依存度を上げることを不安視している。民主党は、予算の無駄使いと少子高齢化に取り組む間、4年間は消費税を5%から上げないと公約した。
「最も大きな理由は、自民党が高齢化・少子化への明確な対策を打ち出さず、有権者に安心を与えられなかったということだ」と、自民党の菅選挙対策副委員長は語った。
日本はどの先進国よりも早く高齢化が進み、社会保障費は増大している。2015年には、日本人の4分の1以上が65歳以上となる。日本経済は、世界的な短期刺激策を受けて第2四半期の水準に回復したが、失業率は7月に5.7%に上昇した。
香港の戦い記念式典:もう一つの終戦記念日 [日本]

1941年12月7日から、1973人のカナダ兵は圧倒的な日本軍を相手に戦った。空軍の援護と重火器が不足する中、戦いは始めから絶望的だった。
クリスマスの休戦までに、カナダ兵290人が戦死した。生き残った者たちも収容所で強制労働に従事させられ、4年後の終戦までに264人が死亡した。
ストックウェル・デイ国際貿易大臣はこの日、香港の戦いを戦った全てのカナダ兵の名を刻んだ花崗岩の記念碑を公開した。
「香港の戦いは、今日まで記念されることはなかった。」
彼の祖父は香港の戦いを生き残り、カナダに帰国を果たすが、長年の酷使のため帰国直後に病院で死亡している。
香港の戦いを経験した退役軍人のうち、90人だけが今も存命である。そのうちの何人かは、セレモニーに出席できるほど健康だった。
アジア系団体、天皇に謝罪を要求 [日本]
団体は「アジア第2次大戦史保存会(カナダALPHA)」(テクラ・リット議長)、「ピース・フィロソフィー・センター」(乗松聡子代表)、「日系カナダ市民協会人権委員会」(鹿毛達雄)、「バンクーバ婦人国際平和自由連盟」(エレン・ウッズワース会長)、「BCフィリピン退役軍人及び予備役軍人協会」(フェルナンド・P・サランガ会長)、「BC移民の会」(ジェーン・オルディナリオ議長)、「カナダ=フィリピン人権連帯」(ベス・ドラーガ議長)、「韓国劇団ハヌリ」(ケビン・ソン監督)。公開書簡には、日本の国会は、日本が何百万もの人々に戦争被害を与えたことを完全に認め、謝罪する決議を可決する必要があると書かれている。
「ピース・フィロソフィー・センター」代表で「バンクーバー九条の会」発起人の乗松聡子氏は、こう語った。
「天皇が過去の戦争について謝罪もしくは遺憾の意を表明すれば、日本国民または日本政府に当然影響を与えるだろう。」
乗松は、一部の歴史家は異論を唱えているものの、1931年から1945年の間に殺害されたアジア人の数は、何百万人にものぼると主張した。さらに、多く見積もって20万人にものぼる「慰安婦」と呼ばれた性奴隷たちに、正義が実行されなければならないと述べた。
「慰安婦たちの大多数は、アジア太平洋地域から動員された若い女性たちであった。彼女たちの中には拉致された者もいたが、良い仕事があると言われて自ら志願した貧しい家の娘もいた。」
慰安婦たちは、時には30人以上の軍人を慰めることを強いられる日もあったと、乗松は語った。
★公開書簡の全文(原文は英語)
バンクーバー日本総領事館気付
日本国天皇陛下・皇后陛下
2009年7月9日
日本国天皇陛下並びに皇后陛下、
私たちは、日本人・中国人・韓国人・フィリピン人そしてヨーロッパ人というカナダの豊かな多様性を構成する複数のグループの代表としてこの手紙を書いています。私たちは、あなた方が東カナダへの訪問を楽しんで下さることを願っています。また、私たちはあなたがたをアジア太平洋地域への入口バンクーバーに温かく歓迎します。
アジア全域から非常に多くの移民がいるカナダはアジア太平洋諸国間の平和と理解を促進する、理想的な場所だと信じています。例えば、日系カナダ人は、他の文化遺産を持つ人々と共に、日本国憲法第九条を広く知らせるために活動しています。ここバンクーバーにある日本国外最初の九条グループは、千葉で開催された世界初の地球規模の九条会議にカナダ代表を派遣するために資金を調達しました。
アジアにつながりを持つカナダ人として、私たちは、さらに第二次世界大戦の戦前・戦中にアジア太平洋地域を侵略した日本軍による傷を癒し、かつ平和な将来をともに作るために壊滅的な戦争の歴史を学習するために協力しています。例えば、毎年、カナダの教育者グループが中国と韓国へ旅行し、南京大虐殺や日本の軍事性奴隷制度を含むアジア太平洋戦争の歴史を学びます。またカナダ人の学生グループが毎年夏、日本へ旅行しヒロシマと長崎での原爆投下の歴史を学習します。この教育者と学生たちは帰国した時、より広いコミュニティーで學んだ事を共有します。私たちの目標は特定の国や人々に対する敵意を助長することではありません。代わりに、私たちの目標は、国境と文化的な違いを超えた、偏見のない教育環境を築くことです。
私たちの教育活動はカナダ・アジア等のコミュニティーで好評ですが、私たちは、日本が歴史の悲劇の渦中にいた戦争犯罪被害者に癒しと正義をもたらそうとする世界のコミュニティーの努力に対して和解を拒否する反応をしたことを目撃しました。日本の国会は、アジア太平洋戦争の被害者の被害と苦痛に対する責任を完全に認めて謝罪する決議をまだ可決していませんし、あるいは被害者への補償を規定する法律を可決していません。
カナダはこれらの問題に心を砕く国家の一つです。2007年11月28日にカナダ下院は、強制「慰安婦」制度に対する日本帝国軍隊の関与に十分な責任をとり、これらの女性に正式かつ誠実な謝罪を申し出て、和解の精神で被害を受けた人々に対応し続けるように日本政府に要求する動議を満場一致で承認しました。
国家としてのカナダは自国の過去の悪事に対応する点で必ずしも完璧ではありませんが、この点に関してカナダがやり遂げた事の1つは、アジア太平洋戦争中に抑留された、日系カナダ人への補償でした。さらに、私たちは、香港の戦いで捕らえられたカナダ人POW、並びに中国、朝鮮、フィリピンおよび他のすべての国々と日本軍が戦争犯罪を犯した地域の被害者に日本政府が賠償を提示するのを見たいと願います。
さらに、私たちは、日本の憲法第九条がそのまま手つかずにいて欲しいのです。何故ならば私達と同じ様にアジアの多くの人々が第九条を日本が二度と侵略戦争を行わないという世界に対する誓約と見ているからです。
天皇陛下ならびに皇后陛下、私たちは、あなたが平和と歴史問題にどれほど心配りをなさったかを知っていますし、感謝しております。例えば、2005年にサイパンを訪問なされた時、朝鮮人被害者の記念碑を追悼なさいましたが、それは和解のジェスチャーでした。1992年に中国を訪問された時、あなたは、アジア太平洋戦争中に日本が中国にもたらした苦難について遺憾の意を表されました。あなた方の言葉は、歴史的な傷の癒しへの前向きの第一歩でした。
戦時中に何万人もの民間人死者を出した沖縄にあなたが1993年に訪問されたときも、日本中そして海外の多くの人々によって評価されました。私たちは、アジア太平洋戦争の戦前・戦中に日本軍が行った残虐行為の被害者に癒しと正義をもたらすことを支援する努力を続けられるますよう、そして第九条を手つかずにして平和の精神のままにしておく努力を支援して頂くようお願いします。
私たちの手紙を読んで下さって有難う。そして再び、私たちは心から、カナダの西海岸にあなた方を歓迎します。私たちは、あなた方が私達の国の美しい日光、海、山そして多文化社会の豊かでダイナミックな社会を楽しんで頂けることを望みます。
敬具
天皇・皇后両陛下カナダを訪問 [日本]

天皇のカナダ訪問は、これが史上初のこと。今上天皇にとっては、皇太子時代の1953年のカナダ訪問以来、56年ぶりの再訪となる。エリザベス二世の戴冠式に出席するためカナダに立ち寄った彼は、各地で日系人の厚い歓迎を受けた。終戦から8年、皇太子の外遊が日本の国際社会復帰を印象づけていたのである。今回の両陛下の訪問は、日加修好80周年、天皇御即位20周年、御成婚50周年の祝賀を含んでいる。

写真上:オタワに到着した両陛下。天皇の後ろはローレンス・キャノン外務大臣、皇后の後ろはビバリー・オダ国際協力大臣
写真下:オンタリオ州ハミルトンで日系人の歓迎を受ける明仁皇太子。
カナダのメディアは民主党代表選をどう報じたか [日本]
日本の野党民主党は土曜日、近づく総選挙において再びチャンスを得るべく、歳出削減と官僚の影響力低減を公約した政治的サラブレッド、鳩山由紀夫氏を代表に選出した。
しかし麻生太郎首相と同様、裕福な元首相の孫である鳩山氏が、10月までに実施される総選挙に勝つために必要な無党派層に、どれほどアピールするかは不鮮明だった。
世論調査は、民主党が長期政権を敷く麻生の自民党を上回っていることを示しているが、小沢一郎氏に今週代表辞任を余儀なくさせた献金スキャンダルは、そのリードを縮めた。
民主党の勝利は、ほとんど無敵の自民党政権50年を終わらせるという以上に、日本経済がここ60年で最悪の不況と苦闘しているときに、政策遂行を妨げていた両院のデッドロックを打破するチャンスでもある。
2007年に民主党が参議院で勝利し、彼らに法案成立を妨げることを許してから、日本における政策立案は立ち往生するようになった。一方の決定的な勝利なくして、手詰まりを打破する可能性は薄い。
何人かの評論家は、一方の明確な勝利は考えにくく、手詰まりは続くと語っている。また別の人々は、結果を言うのはまだ早すぎると語った。
コロンビア大学教授で日本政治が専門のジェラルド・カーチス氏は「もし鳩山氏が、多くの人々が思うより魅力的なリーダーだとわかったら、国民は変化を求めているから、決定的な勝利を得られるだろう」とコメントした。
与党も野党も、世界第二位の経済において成長を押し上げるために必要な公的支出を視野に入れているため、金融市場への短期的影響はそれほど大きくはない。
民主党議員たちは、クリーン・イメージで世論調査をリードした政策通の岡田克也氏(55)ではなく、しばしばもめ事を起こす党をまとめる希望を抱いて、62歳の鳩山氏を選んだと、評論家は語る。
だが鳩山氏は、2006年から代表を引き継いだ、密室のフィクサーというイメージの強い小沢氏にあまりにも近いという理由で、国内のメディアから批判されそうである。
鳩山氏は、官僚の影響力を低減させ、歳出を削減し、子供を持つ世帯への財政援助などを通して世帯収入を増加させると公約した。
「我々の前には激しい戦いがあるが、私は官僚支配とは無縁の民主党を作りたい」と、彼は投票前の討論で述べた。
官僚が自民党や大企業と癒着してきた日本では、歳出をごまかし既得権に固執する官僚の手綱を断ち切ることは容易ではない。
評論家たちは、小沢氏のものと似た鳩山氏のマニフェストは、政治献金についてあいまいだと指摘する。
麻生首相は、経済が回復するなら、増大する社会保障費をカバーするため2011年以降の増税が必要だと述べているが、鳩山氏は、年金改革のためであっても、少なくとも4年間は5%の消費税増税について議論する必要はないと述べている。
ゲートウェイ21に支払った学費を免除 [日本]
同協会によると、160人の授業料は総額で50万カナダドル以上で、留学生らはゲートウェイ21に支払ったものの、語学学校には全額が未納となっている。留学生らは大半が3カ月程度の短期留学だが、来年8月までの授業料をゲートウェイ21に支払った学生もいるという。
福田首相、辞意を表明-民意なき政権交代 [日本]

1891年4月に始まった第7回連邦議会は、総選挙に勝利した保守党のマクドナルド首相が6月に死亡し、アボット首相に代わったが彼は高齢で、病気を理由に1年で辞任、次のトンプソン首相も2年で急死(毒殺説あり)し、次のボーウェル首相は議会で火だるまとなり、1896年4月ヤケクソ解散を行い、同日辞任した。次のタッパー首相は下院を欠いた状態で首相に就任し、次の総選挙で敗北したため、連邦議会を経験しない首相となった。かくして保守党は総選挙の審判を経ることなく、1つの議会の会期で実に5人もの総理総裁をすげ替えたのである。
(http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=1&comm_id=1611536&id=33586167 参照)
初代首相として国の基礎を築いたマクドナルドのカリスマ性は群を抜いており、彼を失った後の保守党はリーダーシップを確立できなかった。また保守党の偏狭な反カトリック主義は、カナダの複雑化する諸問題に柔軟に対応できなくなっていた。保守党が自由党に政権を譲ったのは、当然の結果だろう。
カナダ自由党が万年与党たりえた理由の一つに、党員による党大会をいち早く1893年に開催したことが挙げられる。二大政党の片割れである保守党が初めて党大会を開催したのは1927年であり、30年近くも出遅れた。だが党大会を開催しないと党首を選出できないという民主的なルールは、火急の事態に対応できないことがある。2006年1月の総選挙で敗北したマーチン首相は、ただちに総理総裁を辞任したが、自由党は11月の党大会まで党首を選出できないため、ビル・グレアム元外相を暫定党首とした。選挙に勝利したハーパー首相は過半数を大きく下回る小数政権であり、野党が協力すれば内閣不信任して倒閣も十分可能だったが、暫定党首を首相にすることはできないため、ハーパー政権を揺さぶることはできなかった。
1979年6月の総選挙で敗北したトルドー首相は、党首辞任を表明したが、党大会で正式な党首が選出されるまでは職にとどまると発表した。だが代わって政権についた保守党のクラーク首相は、その年予算案を否決されるハプニングに遭い、解散・総選挙に追い込まれた。トルドーは辞任を撤回し党首として総選挙を戦い、見事に首相に返り咲く。マーチンの尚早な辞任は、誤りであった。

保守党は1984年、282議席中211議席(75%!)の地すべり的大勝利を収め、政権を奪回した。それは西部のための党だった保守党が、敵視してきたケベックの優遇を約束するという歴史的転換のゆえであった。だが度を越したケベック優遇は、地元西部の離反を招いた。公約していた憲法改正に失敗したマルローニ首相は、西部とケベックの両方の支持を失い、1993年6月に辞任する。代わって政権についたキャンベル首相は、下院の任期が残り2か月半しかなく、就任していきなり解散風が吹いていた。たった2か月半で何ができるというのだろうか。しかもマルローニは新居のリフォームが間に合わないという理由で首相官邸から立ち退かなかったため、キャンベル首相は首相別荘で政務を執り、首相官邸に入らなかった唯一の首相となった。保守党は10月の総選挙でわずか2議席と歴史的大敗を喫したが、いったい誰が84年の大勝利から9年で党が壊滅すると予想しえただろうか?
1986年、中曽根政権時代にも自民党は300議席を獲得し大勝利している。このとき、自民党が7年後に野党転落することを誰が想像しただろうか。前回2005年の小泉総裁での総選挙でも、連立与党は327議席の大勝利を飾っている。それが今はこのありさまである。好事魔多し。一度切り捨てた郵政票は、二度と自民党に戻って来ることはないだろう。自らの支持基盤を見捨てた自民党に未来はあるだろうか。
2005年衆院選で296議席を獲得し、「もう公明党は要らない」という声さえ聞かれた自民党。それが2007年参院選では、第2党に転落する大敗を喫した。衆議院での再可決は可能だが、それには3分の2の賛成が必要なため公明党の協力が不可欠となり、参院選での民主党の躍進は、連立与党内における公明党の発言力を拡大する効果を生んだのである。
新テロ対策特措法改正、国会の日程、解散・総選挙の時期…。福田首相にも存念はあっただろうが、何をするにも公明党の意向を聞かなければならなかった。国会開会は9月末で押し切られ、公明党が主張する定額減税実施が盛り込まれ、都議選と矢野氏証人喚問との関わりから早期解散・総選挙を迫られた。誰が何と言おうと自衛隊をイラクに派遣し、郵政民営化に邁進し、靖国神社に参拝した小泉首相とは違っていた。
ハーパー首相の保守党は下院で41%の議席しかなく、さらに上院は自由党が圧倒的多数を占めている。だがハーパー首相は2年半も少数政権に甘んじ、重要案件は野党と協力して成立させてきた。今週中にも解散・総選挙が行われる見通しだが、国民はハーパー首相の行動力を評価しており、世論調査は保守党に安定多数を与えることを示している。
同じ「ねじれ」でも一方は3分の2の大勢力、もう一方は過半数割れと大違いだが、一方は総選挙敗北の影におびえ、もう一方は果敢に総選挙に挑もうとしている。何がこれほどの差を生んだのか。
自民党内では後継総裁に小池百合子氏を推す動きがあるという。何やらいつか見たような光景ではないか。
写真上:辞意を表明する福田首相。
写真下:後列左からマルローニ元首相、ターナー元首相、クラーク元首相、前列はキャンベル元首相。
新民主党、日本政府に従軍慰安婦への謝罪を要求 [日本]
新民主党(NDP)のオリビア・チャ(鄒至蕙)議員は3月8日の「国際女性の日」、従軍慰安婦についてカナダ連邦政府が日本政府と首相に公式謝罪と補償を要求する動議を上程した。
法案には、連邦下院の意見に従いカナダ政府は日本国首相と議会に、
・第二次大戦中に軍事的性奴隷を強要された女性または日本軍が「従軍慰安婦」と呼ぶ女性に対する公式謝罪議案を国会で可決させること
・正当な報償金をこれらの被害者に支給すること
と促さなければならないと記述されている。
同党のピーター・ジュリアン議員は「カナダ連邦下院次元で第二次大戦の性奴隷被害女性関連事案が扱われたのは今回が初めて」と言いながら、「保守党議員たちは同意しないようだが、一部の自由党議員がこの動議の内容に同意しているから、可決される可能性は低くはない」と語った。
カナダ在住の韓国人は、現在全世界的なものになっている米連邦下院の慰安婦問題法案可決キャンペーンを積極的に推進している模様。
オリビア・チャウ議員は、新民主党党首ジャック・レイトン夫人で、香港出身。選挙区はトロントのトリニティ・スパダイナで、チャイナタウンを含んでいる。二人ともトロントの市会議員を長く務め、よく自転車に乗っておりそれがトレードマークのようになっている。
写真:(左)ジャック・レイトン党首、(右)オリビア・チャウ議員
「最後の戦死者」 [日本]
太平洋戦争末期、日本軍の艦砲射撃によって撃墜されたカナダ海軍のロバート・グレー大尉の追悼式が3月20日、大尉の戦没記念碑がある宮城県の女川町崎山公園で行われた。カナダ大使館や町関係者ら計80人が参列。近くの女川湾戦没者慰霊塔も参拝し、恒久平和を誓った。
グレー大尉は、ブリティッシュコロンビア州トレイルに生まれ、ネルソンで育った。第二次世界大戦が始まり、自らカナダ海軍士官に応募するまでは、医者をめざしブリティッシュコロンビア大学で学んでいた。パイロットとして対ドイツ戦で軍功をあげた後は、破壊力はあるが重くて扱いにくい戦闘機を乗りこなす優秀なカナダ人パイロットとして連合軍に加わり、28歳になる年、太平洋に向けて飛び立った。
グレー大尉の任務は、リアス式海岸の崖に囲まれた女川湾に潜む日本海軍の戦艦4艘を撃沈することだった。1945年8月9日、グレー大尉の戦闘機は攻撃が始まるとすぐに被弾したが、墜落する前に天草の機関室を爆撃し、天草は71人の乗組員とともに海に沈んだが、グレー大尉は天草の最後を見届けることなく海へ墜落した。 彼はカナダで「最後の戦死者」(当時)として、カナダ最高のビクトリア勲章を与えられ英雄となり、カナダ大使館が1989年、記念碑を女川湾を一望する同公園の一角に建立した。以来、カナダ大使ら関係者らが毎年訪れ慰霊祭を行ってきた。この日は海軍のフリゲート艦「オタワ」が女川港に寄港。艦上でレセプションが行われ、両国の交流と理解を深めあった。
グレー大尉と彼の戦闘機は、女川湾に没したまま今日も見つかっていない。80年代の終わりになって、カナダ大使館の依頼で女川湾海底の探索が行われたが、大尉の戦闘機も人骨も発見されなかった。
その代わり、おとぎ話のようなエピソードが生まれた。グレー大尉は海に消えてしまったが、ブリティッシュコロンビア州の海に住む稀少生物クチバシカジカが湾内に住んでいるのをダイバーが見つけたのである。クチバシカジカは、日本には生息していない。捕鯨船につんでいた鯨から落ちたものが住みついたという説明もあるが、グレー大尉の生まれかわりだという噂もささやかれた。
第二次大戦後、カナダが参戦したのは湾岸戦争とアフガン戦争だけである。朝鮮戦争では国連軍としてカナダ軍を派遣し多くの戦死者を出したが、湾岸戦争では一人の戦死者も出さなかった。だが2004年4月、アフガニスタンのカンダハル付近で演習中のカナダ軍を米軍機が誤爆し、4人のカナダ兵が死亡し、カナダが参戦した戦争で戦後初の戦死者となった。
写真:ロバート・グレー大尉。
カナダ、大阪・福岡領事館の閉鎖を発表 [日本]
カナダ政府は、財政事情を理由に在大阪領事館(大阪市中央区)を3月末に閉鎖すると発表した。
大阪市では2000年から2004年にかけて、ニュージーランド、メキシコ、ベルギーの各総領事館が閉鎖しており、主要8か国(G8)の一つであるカナダの撤退に、大阪市は「国際交流の面でも東京への一極集中がさらに進む」と危機感を募らせ、関西在住カナダ人の親睦団体は、ハーパー首相あてに閉鎖反対の請願書を提出する動きをみせている。
閉鎖される領事館は、大阪と福岡の2か所。在日カナダ大使館広報部(東京)は「人的、物的資源の効率的な配分見直しの一環。業務は大使館が引き継ぐが、ITの発達などにより東京からでも従来通りの業務を提供できる」としている。
2004年実績で、関西からカナダへの輸出は、機械などを中心に約917億円で、日本の対カナダ輸出総額の約1割。輸入は、農業製品など約1980億円で約2割を占める。
関西では最大で33か国の領事館があったが、財政事情や阪神大震災などの影響で1月現在、19か国に減少。大阪市市長室の担当者は「国際都市を標榜しているだけに残念。海外への情報発信力の低下にもつながる」と懸念する。
「関西カナダ人協会」のポール・デュプイ会長(38)は「関西とカナダの関係を発展させるためには、領事館は絶対に必要。協会員や在日カナダ商工会議所などに呼びかけ、ハーパー首相あてに請願書を提出し、見直しを求めたい」と話している。