馬術障害飛越の混合個人でラメーズが金メダル [北京五輪]

彼は薬物中毒の母から生まれ、アルコール中毒の祖母に育てられた。中学生でドロップアウトし、路上で生活した。1992年、カナダワールドカップリーグで2位となり注目されるようになり、1996年にはカナダのオリンピック代表に選ばれるが、コカイン使用が判明し4年間資格を停止され、オリンピックに出場できなかった。停止処分は後に7か月に短縮された。
2000年にも再び尿検査で陽性となり、今度は永久追放となりまたもオリンピックに出場できなかったが、後に短縮された。
ラメーズはインタビューに答えて言った。
「8年の月日は長かった。あなたが人に、過ちから学び立ち返るチャンスを与えたら、きっと素晴らしいことが起こるだろう。私は、人を見捨ててはいけないという好例になったと思う」。
板飛び込みでデパティが銀メダル [北京五輪]

8月19日、男子板飛び込みでアレクサンドル・デパティが銀メダルを獲得した。彼はアテネ・オリンピックでもこの種目で銀メダルを獲得しており、2大会連続のメダル獲得である。彼は13日にもシンクロ板飛び込みで、アートロ・ミランダとともにはメダルを獲得しそうだったが、惜しくも5位に敗れていた。
デパティは語った。
「今年起こった全ての災難を思えば、銀メダルは私にとっては金メダルですよ」。
彼は4月にサッカーをしているとき、右足を骨折し、7週間休養したためオリンピック選考試合に出場できなかった。彼は7月のカナダジュニア大会に出場してようやく代表に選ばれたのである。
ロペス=シュリープが100m障害で銅メダル [北京五輪]

カナダの陸上でのメダル獲得は、1996年アトランタ・オリンピックにおけるドノバン・ベイリーの100mと1600mリレーでの金メダル以来で、女子では1992年バルセロナ・オリンピックにおけるアンジェラ・チャーマーズの3000mでの銅メダル以来である。
ロペス=シュリープは語った。
「まるで自分が体の外に飛び出して、天国に行って戻って来るみたいだったわ」。
多くのカナダ人は100m障害で、2003年世界陸上金メダル・2007年世界陸上銀メダルのパーディタ・フェリシエンか、アンジェラ・ホワイトがメダルを獲るのを期待した。ところがフェリシエンはけがのため出場せず、ホワイトは予選落ちし、ロペス=シュリープがカナダ唯一の望みとなった。
2008年世界室内陸上選手権金メダリストのローロー・ジョーンズ(アメリカ)は、セカンドハードルに衝突してつまずき、7位に沈んだ。そのほか、メダルの有力候補が決勝に進めなかった。2007年ヨーロッパ室内陸上選手権金メダリストのスザンナ・カルル(スウェーデン)は、準決勝で最初のハードルに衝突し棄権した。アテネ・オリンピック金メダリストのジョアンナ・ヘイズは、アメリカ代表選考に漏れ、出場できなかった。
ホイットフィールド、チームプレーでトライアスロン銀メダル [北京五輪]

カナダはトライアスロンに3人の選手を送り込んでいた。だがカナダの狙いはただ一つ、エースのホイットフィールドを入賞させることだった。最後のマラソンまで体力を温存するため、水泳のスペシャリスト、コリン・ジェンキンスをレースに参加させ、スイムではホイットフィールドを先導して泳ぎ、次の自転車ではホイットフィールドの前を走って空気抵抗を軽減させる作戦である。
スイムを終えたとき、ジェンキンスは15位、ホイットフィールドは19位だった。最後のマラソンに入ったときは、ホイットフィールドはトップより58秒も遅れ、メダルは絶望かと思われたが、体力を十分にキープした彼は徐々にペースを上げ、先頭グループの4人の1人となった。
最後の5kmで、世界チャンピオンで優勝候補のフランシスコ=ハビエル・ゴメス(スペイン)がいつも通りスパートをかけてくると思われたが、気温28度・湿度80%の過酷な気象条件でその力は残っていなかった。レースをずっとトップで先導してきたゴメスは後退し、4位に沈んだ。優勝はドイツのヤン・フロデノ、3位はニュージーランドのベバン・ドカティだった。日本の山本良介は30位、田山寛豪は48位、ジェンキンスは最下位の50位だった。
馬術障害飛越の混合団体でカナダが銀:ミラーが61歳でメダル [北京五輪]

ミラーは25歳で初めてミュンヘン・オリンピックに出場して以来、カナダのあらゆる乗馬チームのメンバーに選ばれ続け「キャプテン・カナダ」の異名を取った。1987年にはパン・アメリカンゲームで、個人で金メダルを獲得した二人目のカナダ人となった。1986年にはオーダー・オブ・カナダ勲章を受章し、1996年にはスポーツの殿堂にも入っている。
だが10度のオリンピック選出においては、1972年ミュンヘン大会で団体6位、1976年モントリオール大会で団体5位、1980年モスクワ大会はボイコットのため不参加、1984年ロサンゼルス大会で団体4位・個人14位、1988年ソウル大会で団体4位・個人15位、1992年バルセロナ大会で団体9位・個人54位、1996年アトランタ大会で団体16位・個人46位、2000年シドニー大会で団体9位・個人13位、2004年アテネ大会で個人24位と、彼は一度もメダルを獲ることができなかった。

「妻が私に言ったことがある。『気にすることはないわ。あなたは遅咲きなのよ。次を頑張ればいいのよ。』それからどうなったと思う? ついに咲いたんだよ!」
その妻リンは、長い闘病の末に今年亡くなった。
「馬に乗ったとき、天使がいっしょに乗っていたんだ。今言えることはそれだけだ。」
ミラーは涙を浮かべながらそう語った。
オリンピック史上最高齢の金メダル獲得は、スウェーデンの射撃選手オスカー・スバーンの64歳258日で、史上最高齢のメダル獲得は、スバーンの72歳280日である。ミラーが2012年のロンドン・オリンピックで金メダルを獲得すれば、もちろん世界記録となる。
「私は、2012年にも出場しているだろうか? もちろんだ。馬は、すでに用意した」。
写真左:左からコーン、ミラー、ラメーズ、ヘンゼルウッド。
写真右:イアン・ミラー。
コックバーンがトランポリンで銀メダル [北京五輪]

今大会の金メダルは中国の何雯娜、銅メダルはウズベキスタンのエカテリーナ・ヒルコだった。シドニー大会金メダリストで世界選手権2連覇中のイリーナ・カラバエワ(ロシア)は、予選を2位で通過したものの決勝は5位に終わった。アテネ大会金メダリストのアンナ・ドゴナゼ(ドイツ)は、コントロールを失い8位に沈んだ。またカナダの19歳の新鋭ロザンナ・マクレナンは、コックバーンの影に隠れていたが予選を3位で通過しメダルを期待されたものの、決勝は7位に終わった。
コックバーンは昨年10月に右膝の軟骨を損傷し、翌月ケベック市で開催された世界選手権では最後まで演技することができず、手術を受けることにした。彼女は北京オリンピックを万全のコンディションで迎えられないことを心配したが、今年5月のワールド・カップでは、不安を微塵も感じさせない演技で金メダルを獲得した。
コックバーンは、すでに右膝の手術を二度行っており、これがおそらく最後のオリンピックになるだろうと語った。
ハートリーが板飛び込み決勝で4位敗退 [北京五輪]

オリンピックを控えたこの1年は、彼女にとって特別に苦しい年だった。昨年の夏、兄のストラチャンを非ホジキンリンパ腫で亡くし、一時は競技をやめようとさえ思いつめたのである。また今年2月の飛び込みワールドカップのとき、この競技の第一人者でモデルとしての顔も持つ中国の美人アスリート郭晶晶に、「カナダのデブ(那個胖子)」と呼ばれた。ハートリーはその発言を無視して、インタビューでは郭選手の技術をただ賞賛することに努めたが、気持ちは治まらなかった。
コーチのミッチ・ジェラーは言った。
「自分の感情と戦うのではなく、君のありのままの感情を受け容れて、そのままの気持ちで飛び込むんだ」。
郭はモデルも務め、映画やCMに出演し、実業家との浮名を流し、ラブメールまで暴露され、週刊誌やウェブサイトでおもしろおかしく取り上げられ、妊娠・引退のデマさえ報道された。だが彼女は、競技ではそれらの雑音をはねのけ、圧倒的な強さを発揮し続けていた。
「私は飛び込みが好きだから、まだ引退しようとは思いません。世間が何と言おうと、問題ではありません。気にしません。」
ハートリーは、一つのことだけを考えることができなかった。2000年のシドニー・オリンピックでは2つの競技に出場したものの、メダルを獲ることはできなかった。2004年のアテネ・オリンピックでは、10mシンクロナイズド高飛び込みで銅メダルを獲得したが、大きな期待をかけられた彼女の、これが最後で唯一のメダルとなった。
ハートリーは語った。
「トップだろうと最下位だろうと、兄はいつも私を受け容れ、私に微笑んで、私を誇りに思ってくれていました」。
最後の選手は、郭晶晶だった。彼女は決勝でも完璧な演技を見せつけ、シンクロに続き堂々の二冠に輝いた。ハートリーは4位で彼女の競技人生に幕を引いた。
カナダ、1日で4個のメダル獲得 [北京五輪]
●男子1500m自由形でコクレーンが銅メダル
8月17日、競泳男子1500m自由形でライアン・コクレーンが銅メダルを獲得した。
昨年の世界選手権で15位に終わっていたコクレーンは、予選を2位、オリンピック新記録で通過した。決勝では1000mの地点ではトップに立っていたが、1050m地点では3位に後退し、1150m地点では2位に浮上していた。
最終的にはチュニジアのウサマ・メルーリが金メダル、予選を1位通過したオーストラリアの世界記録保有者グラント・ハケットが銀メダル、そしてコクレーンが銅メダルを獲得した。カナダが男子1500m自由形でメダルを獲得するのは、1920年アントワープ大会のジョージ・バーノットの銀メダル以来のことである。
カナダはアテネオリンピックで、1964年以降初めて競泳でメダル0に終わり、コーチのデーブ・ジョンソンは更迭され、代わってピエール・ラフォンテーヌが就任した。カナダ競泳チームは、北京で最低でも1個のメダル獲得を胸に期した。
だが、2007年世界選手権において100m自由形で優勝したブレント・ヘイデンは、予選を3位で通過したものの準決勝で11位と敗退し、メダル獲得を期待された男子800mリレー(ヘイデンを含む)は、5位に終わった。この時点でカナダ競泳チーム最高の記録は、男子200m平泳ぎのマイク・ブラウンの4位であった。
予選を2位で通過したコクレーンは、カナダ競泳チーム最後のチャンスと期待されたが、プレッシャーは特に感じなかったという。コクレーンはインタビューに答えて言った。
「ぼくは、ほかの誰よりも多くのプレッシャーを自分にかけたんだ。ぼくはそれだけ多くのサポートを、チームメイトから受けてきたからね。ぼくたちがカナダ人であることを、今は本当に誇りに思う」。
●ボート女子軽量級ダブルスカルと男子軽量級かじなしフォアで銅メダル
1
7日、ボート女子軽量級ダブルスカルでメラニー・コック&トレーシー・キャメロン組が銅メダルを獲得した。またボート男子軽量級かじなしフォアでも、イアン・ブランベル&ジョン・ベア&マイク・ルイス&ライアム・パーソンズ組が銅メダルを獲得した。
コック&キャメロン組は、カナダでメダルを期待された重量挙げのクリスティン・ジラール、平泳ぎのマイク・ブラウン、砲丸投げのディラン・アームストロングがいずれも4位と、惜しくもメダルに手が届くことなく敗退していくのを目の当たりにしてきた。そして軽量級ダブルスカルにおいても、3度オリンピックで優勝した強豪ルーマニアと、世界チャンピオンのオーストラリアが予選敗退するのを見たのである。
カナダクルーは、予選第2組ではドイツに競り負けて2位で通過した。準決勝第2組はトップで通過したものの、コックは課題があるのを感じていた。
「最初の2つのレースの後、最後の500mで追いつかれそうになる傾向があるので、最後の500mをがんばり抜くことに決めました」。
決勝でカナダクルーは、中間地点ではドイツのすぐ後方の2位につけていたが、その後メダル候補のオランダに追い越された。フィンランドはこのとき後方の4位につけていたが、後半にスパートをかけ追い抜いた。最終的に優勝はオランダ、2位はフィンランド、3位はカナダとドイツがほぼ同時にゴールインしたため写真判定が行われ、カナダが0.04秒の差で際どく銅メダルを手にすることになった。
だがキャメロンは、カナダの勝利を微塵も疑わなかった。
「私たちのバウボールが、ドイツより先にゴールインするのがはっきり見えました。だからあとは、審判がそれを確認するのを待つだけでした」。
写真上:左からイアン・ブランベル、ジョン・ベア、マイク・ルイス、ライアム・パーソンズ。
写真下:左からメラニー・コック、トレーシー・キャメロン。
●ボート男子エイトがカナダ2個目の金
ボート男子エイトのブライアン・プライス、カイル・ハミルトン、アダム・クリーク、ドミニク・セイタール、マルコム・ハワード、ジェイク・ウェッツェル、アンドリュー・バーンズ、ベン・ルトレッジ、ケビン・ライト組が、カナダ2個目の金メダルを獲得した。
カナダクルーは8月11日の予選で、中間地点で早くも2位に1艇身差をつけ、最終的に7秒差をつけて圧勝した。決勝でもカナダの勢いは止まらず、最初の500mを驚異的なペースで駆け抜け、2位イギリスを寄せ付けず、世界チャンピオンの実力を見せつけて圧勝した。
カナダクルーは、2004年のアテネ・オリンピックでメダルを期待されたにもかかわらず5位に終わった雪辱を、ようやく果たすことができた。アテネでの敗戦から、クルーは北京で勝つことのみを目指してきた。カイル・ハミルトンは語る。
「金メダルで表彰されるのは夏だが、それを獲るのは冬だ。ここまで、4年の厳しい冬があった」。
カナダクルーは、ここ2年の間一度も負けなかった。彼らは2007年の世界選手権で優勝し世界チャンピオンに輝いたが、世界チャンピオンは1973年以来、オリンピックで金メダルを獲れないというジンクスがあった。だがカナダクルーは、そのジンクスをも吹き飛ばした。
写真上:国旗を掲げるカナダクルー。右端は舵手のブライアン・プライス。彼は幼児期に白血病を患い、投薬の影響で甲状腺を損傷し背が伸びなかったため、身長は164センチしかないが、それゆえ舵手として理想的な体型となった。
写真下:舵手のブライアン・プライスを投げ飛ばすカナダクルー。

昨年の世界選手権で15位に終わっていたコクレーンは、予選を2位、オリンピック新記録で通過した。決勝では1000mの地点ではトップに立っていたが、1050m地点では3位に後退し、1150m地点では2位に浮上していた。
最終的にはチュニジアのウサマ・メルーリが金メダル、予選を1位通過したオーストラリアの世界記録保有者グラント・ハケットが銀メダル、そしてコクレーンが銅メダルを獲得した。カナダが男子1500m自由形でメダルを獲得するのは、1920年アントワープ大会のジョージ・バーノットの銀メダル以来のことである。
カナダはアテネオリンピックで、1964年以降初めて競泳でメダル0に終わり、コーチのデーブ・ジョンソンは更迭され、代わってピエール・ラフォンテーヌが就任した。カナダ競泳チームは、北京で最低でも1個のメダル獲得を胸に期した。
だが、2007年世界選手権において100m自由形で優勝したブレント・ヘイデンは、予選を3位で通過したものの準決勝で11位と敗退し、メダル獲得を期待された男子800mリレー(ヘイデンを含む)は、5位に終わった。この時点でカナダ競泳チーム最高の記録は、男子200m平泳ぎのマイク・ブラウンの4位であった。
予選を2位で通過したコクレーンは、カナダ競泳チーム最後のチャンスと期待されたが、プレッシャーは特に感じなかったという。コクレーンはインタビューに答えて言った。
「ぼくは、ほかの誰よりも多くのプレッシャーを自分にかけたんだ。ぼくはそれだけ多くのサポートを、チームメイトから受けてきたからね。ぼくたちがカナダ人であることを、今は本当に誇りに思う」。
●ボート女子軽量級ダブルスカルと男子軽量級かじなしフォアで銅メダル
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コック&キャメロン組は、カナダでメダルを期待された重量挙げのクリスティン・ジラール、平泳ぎのマイク・ブラウン、砲丸投げのディラン・アームストロングがいずれも4位と、惜しくもメダルに手が届くことなく敗退していくのを目の当たりにしてきた。そして軽量級ダブルスカルにおいても、3度オリンピックで優勝した強豪ルーマニアと、世界チャンピオンのオーストラリアが予選敗退するのを見たのである。
カナダクルーは、予選第2組ではドイツに競り負けて2位で通過した。準決勝第2組はトップで通過したものの、コックは課題があるのを感じていた。
「最初の2つのレースの後、最後の500mで追いつかれそうになる傾向があるので、最後の500mをがんばり抜くことに決めました」。

だがキャメロンは、カナダの勝利を微塵も疑わなかった。
「私たちのバウボールが、ドイツより先にゴールインするのがはっきり見えました。だからあとは、審判がそれを確認するのを待つだけでした」。
写真上:左からイアン・ブランベル、ジョン・ベア、マイク・ルイス、ライアム・パーソンズ。
写真下:左からメラニー・コック、トレーシー・キャメロン。
●ボート男子エイトがカナダ2個目の金

カナダクルーは8月11日の予選で、中間地点で早くも2位に1艇身差をつけ、最終的に7秒差をつけて圧勝した。決勝でもカナダの勢いは止まらず、最初の500mを驚異的なペースで駆け抜け、2位イギリスを寄せ付けず、世界チャンピオンの実力を見せつけて圧勝した。

「金メダルで表彰されるのは夏だが、それを獲るのは冬だ。ここまで、4年の厳しい冬があった」。
カナダクルーは、ここ2年の間一度も負けなかった。彼らは2007年の世界選手権で優勝し世界チャンピオンに輝いたが、世界チャンピオンは1973年以来、オリンピックで金メダルを獲れないというジンクスがあった。だがカナダクルーは、そのジンクスをも吹き飛ばした。
写真上:国旗を掲げるカナダクルー。右端は舵手のブライアン・プライス。彼は幼児期に白血病を患い、投薬の影響で甲状腺を損傷し背が伸びなかったため、身長は164センチしかないが、それゆえ舵手として理想的な体型となった。
写真下:舵手のブライアン・プライスを投げ飛ばすカナダクルー。
カナダ、1時間に3個のメダル獲得 [北京五輪]
●カナダ初のメダルはボートのカルダー&フランドセン組
これまでメダルを獲得できなかったカナダは、8月16日の1時間の間に金・銀・銅の3つのメダルを獲得した。
16日に行われたボート男子かじなしペアで、カナダのデビッド・カルダー&スコット・フランドセン組が2位となり、カナダ最初のメダルを獲得した。
カルダーは2004年のアテネ・オリンピックにも出場しているが、コースをはずれ失格となった。フランドセンは男子エイトで出場しているが、5位に敗れている。この日の銀メダルは、二人にとってアテネの雪辱を晴らす機会となった。
●レスリング女子フリースタイル48kg級でハインがカナダ初の金メダル
同じく16日に行われたレスリング女子フリースタイル48kg級では、カナダのキャロル・ハインがカナダ初の金メダルを獲得した。
決勝での相手は日本の伊調千春。伊調は3度世界チャンピオンに輝き、2004年のアテネ・オリンピックでは銀メダルを獲得している。いっぽうハインは、世界選手権で3度メダルを獲得(2000年・2001年銅、2005年銀)したのみで、2007年世界選手権では5位に終わっている。
ハインは序盤から積極的に攻め、伊調につけ込む隙を与えず、第1ピリオドは1ポイントを取った後、タックルを浴びせて背中から場外に落とし決定的な3ポイントを取って4-0で勝利した。第2ピリオドでもハインは伊調のバックを取り、アンクルホールドでローリングして2ポイントを取り2−1と、第3ピリオドに進むことなく完勝した。
ハインの勝利は、多くの人々に番狂わせと受け留められた。コーチたちはハインを肩車に乗せ、カナダの国旗を掲げながら勝利のパレードを行った。カナダの国歌が演奏されると、彼女は表彰台で泣いた。
「私は、自分がカナダ人であることをどれほど誇りに思っているか、そして私がここに辿り着くまでの道のりについて考えていました」。
ハインはブリティッシュコロンビア州ヘイズルトンの生まれだが、彼女の母はベトナムで生まれている。父は中国で生まれ、3歳のときベトナムに移った。二人は1970年代にカナダに逃亡し、ウェイトレス、埠頭作業員、製材場などあらゆる仕事に従事したという。
伊調千春はアテネに続き2大会連続の銀メダルで、妹の伊調馨との姉妹金メダルの悲願はまたも幻に終わった。
●女子フリースタイル55kg級でトーニャ・バービークが銅メダル
レスリング女子フリースタイル55kg級でトーニャ・バービークが銅メダルを獲得したのは、それから20分も経たないうちのことだった。
バービークは1回戦でモンゴルのオトゴンジャーガル・ナイダンを7-0で破り、2回戦でモルドヴァのルドミラ・クリステアを6-1で破った。だが準決勝で日本の吉田沙保里に8-0で完敗し、3位決定戦に回ってスウェーデンのイダ=テレース・ネレルに2-0で勝ち、銅メダルを獲得した。
バービークは2004年アテネオリンピックでは銀メダルを獲得しているが、試合を終えた彼女は笑みを浮かべながら「試合に負けて銀メダルを獲るより、試合に勝って銅メダルを獲る方が気分がいいわ」と語った。
バービークは女子フリースタイルレスリングで最初にメダルを獲ったカナダ人だが、今回のオリンピックを最後に引退することを示唆した。
写真上:デビッド・カルダー(右)とスコット・フランドセン(左)。
写真中:キャロル・ハイン。
写真下:銅メダルを掲げるトーニャ・バービーク。

16日に行われたボート男子かじなしペアで、カナダのデビッド・カルダー&スコット・フランドセン組が2位となり、カナダ最初のメダルを獲得した。
カルダーは2004年のアテネ・オリンピックにも出場しているが、コースをはずれ失格となった。フランドセンは男子エイトで出場しているが、5位に敗れている。この日の銀メダルは、二人にとってアテネの雪辱を晴らす機会となった。
●レスリング女子フリースタイル48kg級でハインがカナダ初の金メダル
同じく16日に行われたレスリング女子フリースタイル48kg級では、カナダのキャロル・ハインがカナダ初の金メダルを獲得した。
決勝での相手は日本の伊調千春。伊調は3度世界チャンピオンに輝き、2004年のアテネ・オリンピックでは銀メダルを獲得している。いっぽうハインは、世界選手権で3度メダルを獲得(2000年・2001年銅、2005年銀)したのみで、2007年世界選手権では5位に終わっている。

ハインの勝利は、多くの人々に番狂わせと受け留められた。コーチたちはハインを肩車に乗せ、カナダの国旗を掲げながら勝利のパレードを行った。カナダの国歌が演奏されると、彼女は表彰台で泣いた。
「私は、自分がカナダ人であることをどれほど誇りに思っているか、そして私がここに辿り着くまでの道のりについて考えていました」。
ハインはブリティッシュコロンビア州ヘイズルトンの生まれだが、彼女の母はベトナムで生まれている。父は中国で生まれ、3歳のときベトナムに移った。二人は1970年代にカナダに逃亡し、ウェイトレス、埠頭作業員、製材場などあらゆる仕事に従事したという。
伊調千春はアテネに続き2大会連続の銀メダルで、妹の伊調馨との姉妹金メダルの悲願はまたも幻に終わった。
●女子フリースタイル55kg級でトーニャ・バービークが銅メダル

バービークは1回戦でモンゴルのオトゴンジャーガル・ナイダンを7-0で破り、2回戦でモルドヴァのルドミラ・クリステアを6-1で破った。だが準決勝で日本の吉田沙保里に8-0で完敗し、3位決定戦に回ってスウェーデンのイダ=テレース・ネレルに2-0で勝ち、銅メダルを獲得した。
バービークは2004年アテネオリンピックでは銀メダルを獲得しているが、試合を終えた彼女は笑みを浮かべながら「試合に負けて銀メダルを獲るより、試合に勝って銅メダルを獲る方が気分がいいわ」と語った。
バービークは女子フリースタイルレスリングで最初にメダルを獲ったカナダ人だが、今回のオリンピックを最後に引退することを示唆した。
写真上:デビッド・カルダー(右)とスコット・フランドセン(左)。
写真中:キャロル・ハイン。
写真下:銅メダルを掲げるトーニャ・バービーク。