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十月危機の主犯ポル・ローズ死去 [ケベック]

paul_rose-1.jpg ケベック解放戦線(FLQ)元幹部で、十月危機に関与したポル・アビガル・ローズが3月14日、脳卒中のためモントリオールの病院で死去した。ラジオ・カナダは番組で、彼を「活動家・政治学者・組合運動家」と紹介した。またケベックの新聞ル・デボワール紙は、彼を「現代ケベックの歴史上、傑出した人物」と評価した。

 ポル・ローズは、モントリオールに生まれ、養護学校教師を勤めるかたわら、ケベック解放戦線幹部として活動した。ケベック解放戦線は1970年10月5日、イギリスのジェームズ・クロス通商代表を誘拐し、50万ドル相当の金塊と、服役中のメンバーの釈放およびキューバへの亡命を要求した。組織はさらにアメリカの要人を誘拐する計画だったが、休暇でテキサスにいたローズは急遽ケベックに戻り、ピエール・ラポルト労働大臣誘拐計画をまとめ上げ、10月10日にこれを実行した。ラポルト労相は17日、車のトランクから遺体となって発見された。死因は絞殺だった(十月危機)。
 12月3日、クロス氏の解放と引き換えに、服役中だったケベック解放戦線の5人がキューバに亡命した。だがローズは、ラポルト労相殺害の犯人として逮捕され、終身刑を宣告された。彼が裁判所で左手を挙げ「FLQ万歳!」を叫んだときの写真は、ケベック独立運動のシンボルとなった。
 1980年、州政府の調査は、ラボルト殺害現場にローズがいなかったことを示したため、彼はその2年後に仮釈放された。ところが警察は後に、盗聴したローズの電話において彼が弁護士に「俺が金の鎖でラポルトを始末した」と、ラポルト労相が首に巻いていた金の鎖が凶器だという、一般人が知りえない情報を語ったと公表した。

 ローズは過去の活動について、何の後悔も反省も示さなかった。彼はル・デボワール紙のインタビューで、こう述べた。
「私は1970年の、誘拐・監禁・虐待を一切後悔していない。私は、やらねばならなかったことをした。今同じ状況に置かれても、私は全く同じことをするだろう。私は、自分がしたことを決して否定するつもりはない。それは、若さゆえの無分別ではなかった。」
 仮釈放前の1981年、ローズは母の葬式に参列することを許された。スタンディング・オベーションで迎えられた彼は、こう語った。
「私が終身刑を宣告された日、母は私に言った。『ポル、あなたを誇りに思うわ』と。」
 同じ年、誘拐罪で服役したポルの弟ジャックも、ケベック党大会でスタンディング・オベーションで迎えられた。だが合法的な独立を志向していたルネ・レベック党首は、ケベック解放戦線を危険視し、これを不適切だと非難した。

 ローズはテロリストとして服役した過去があるにもかかわらず、労働組合アドバイザーとして、また新聞のコラムニストとして、ときにはモントリオール大学の学生として生活し、政界にまで進出しようとした。
 彼は1992年の州議会補選で、ケベック新民主党候補に指名された。この事件は、連邦新民主党がケベック新民主党との提携関係を解消し、党名変更を迫る騒動に発展した。彼は仮釈放中で立候補する資格がなかったので、結局出馬は断念したが、1996年には「社会民主党」と名を改めていたこの党の党首に選出された。この党は他党との合併を繰り返し、現在は「ケベック連帯」となっている。

 ローズは亡くなるまで、全国労働組合連合会や受刑者の権利擁護運動に関与し、最近では、授業料値上げに反対するケベック学生運動に加担し、最も過激な学生組織CLASSEで演説している。ケベック連帯のアミル・カディル代表は来週、ローズを顕彰する動議を州議会に提出する。
「彼はケベック独立運動において重要な役割を果たした。彼の誠実さ、献身、完全性、知性を誰も疑うことはできない。私は公的に哀悼の意を示すため、閣僚を含む全ての独立派を招待する。」
 ケベック党政府は、ローズの死に際しコメントを拒否した。カディル代表はこれを非難した。いっぽう全国労働組合連合会のジェラール・ラローズ元委員長は、ローズがケベック社会に与えた影響があるとすれば、暴力は目的達成の役に立たないということだけだとコメントした。
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