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タイガー=ジェット・シン親子、ミルトンから市民栄誉賞 [スポーツ]


日本でもおなじみのカナダ人プロレスラー、タイガー=ジェット・シンとタイガー=アリ・シン親子が、オンタリオ州ミルトンから市民栄誉賞を授与された。以下東京スポーツの対談を掲載する。

――地元ミルトンで表彰されたそうですが。

シン:市政150年を記念して、カナダで初めて“Walk of Fame”が設立されたんだが、私と息子のタイガー=アリ・シンも選ばれた。月に行った宇宙飛行士やマラソンの名ランナーだったアスリートなど、世界的な功績を誇る人たちばかりだ。彼らと一緒に、私たち親子の写真も市役所に飾られた。

――シン親子の受賞理由は何ですか?

シン:カナダ・アメリカでは富を成したら寄付するのは当然の義務。加えて私たちはアンチ・ドラッグ(麻薬撲滅運動)に力を入れている。ここカナダはアメリカほどひどくはないが、ドラッグ問題は深刻になっている。レスリングの世界ではドラッグで命を落とした人もいる。その実情を良く知る私の話にはみんな耳を傾けてくれるから、学校を中心に講演しているんだ。

――息子さんもレスラーとして活躍しました。

シン:今は不動産開発会社を経営し、地方発展に大きく寄与している。現在も「タイガー・ランド」という超巨大なプロジェクトが進んでいる。ミルトンの郊外200エーカー(約80万平方メートル)を開発している。2000世帯が住む住宅地に、ホテルやスポーツ施設もできるんだ。

――ファミリーの結束は強いようですね。

シン:私の支えはかけがえのないタイガー・シン・ファミリーだ。二男のバルディーダ・シン=ハンスはミルトン郡の警察官。そしてリングの上では一番のパートナーだった上田馬之助だ。

――上田さんは交通事故の後遺症を克服するために、大分県でリハビリに励んでいます。

シン:彼とは言葉は必要なかった。互いに目を見れば、すべてを読み取れた。ある意味、兄弟以上の仲だった。

――実業家として成功しているのに、レスラーとしての情熱は冷めていないようですね。

シン:ミスター・ウエダのためにも、まだまだリングを降りるわけにはいかない。彼にエネルギーを与えたいからな。だからコンディション調整に気を使っている。

――まだまだ「ハタリハタマタ」だと。

シン:当たり前だ。私は実業界でもリング上でも永遠に「キングの中のキング」だ!

写真左:シンの市民栄誉賞受賞を報じた東京スポーツの記事。
写真右:現在のタイガー=ジェット・シン。


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高橋 幸二

★タイガー=ジェット・シン(本名ジャグジート・シン=ハンス)

 1944年インド・パンジャブ州のルディヤーナに生まれる。インド貴族の家柄という噂があるが定かではない。シーク教徒。インドのプロレスラー、ダラ・シンにあやかり「シン」を名乗っている。
 17歳でバンクーバーに移民したとき、ポケットにはわずか6ドルしかなかった。プロレスラーになるためトロントに移住し、1965年にプロデビュー。カナダ時代はもっぱらメープルリーフ・ガーデンで試合した。1970年代には年間8万ドルを稼ぎ、カナダのトップレスラーの1人になった。なおトロントはインド・パキスタン系住民が多く、この地でのシンは一貫してベビーフェイスである。彼がヒール役を「演じた」のは新日本プロレス参戦からであり、そのモデルはザ・シークであろう。狂人パーソナリティを貫くことと、決してプライベートを明かさなかったことも共通している。
 だがシンは、プロレスラーが日本でどれほどのお金を稼ぐことができるかを知り、1973年日本に渡る。アントニオ猪木が無名外国人選手のプロフィールに目を通しているとき、口にナイフを咥えているシンの写真に注目した。彼がこのとき「ナイフじゃなくサーベルでも咥えさせてみろ」と語ったことが、後のシンのスタイルの始まりだった。彼はターバンを巻きサーベルを振りかざし観客に暴行しながらリングに上がり「インドの狂虎」の異名を取った。
 1975年に猪木を破りNWFヘビー級王座を獲得。1976年には坂口征二を破り初代アジアヘビー級王座を獲得。1977年には上田馬之助とタッグを組み、坂口征二&ストロング小林組から北米タッグ王座を獲得。しかし1980年頃からスタン・ハンセンの台頭により、人気に陰りが見えはじめてくる。1981年、同じカナダ(スーダンではない)のアブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本プロレスに移籍したとき「あんな黒豚といっしょに闘いたくない」と言って、全日本プロレスに移籍する。
 1981年上田とのタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組からインタータッグ王座を獲得。しかし、ほぼ同時期に新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンらの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった。
 1990年、アントニオ猪木デビュー30周年において、永遠のライバル猪木と一夜限りの特別タッグを組み、興行に花を添えた。これを機に新日本プロレスへ復帰を果たすも体力的な衰えは隠せず、1992年にFMWに移籍。大仁田厚が考案した様々なデスマッチの一つに公認凶器というルールがあり、この試合形式においてシンは水を得た魚の如く大活躍した。FMWのリングでは、大仁田厚と電流爆破デスマッチ、関ヶ原でのノーピープルデスマッチなど数多い名勝負を繰り広げ、息子のタイガー=アリ・シンと組んでタッグリーグ戦に参加した。

 1973年11月、シンは外人レスラー数名と組み、夫人と買い物中だったアントニオ猪木を新宿伊勢丹前で白昼堂々と襲撃した。猪木は負傷・流血し警察に通報された。四谷警察署は「本物の喧嘩であれば猪木はシンを傷害罪で告発し、被害届を出すように。やらせであれば道路交通法違反で新日本プロレスを処分する」という厳しいものだった。これに対し新日本プロレスは「やらせではない。シンは契約選手なので傷害罪で告発することは出来ないが、騒ぎを起こしたことは申し訳なく、お詫びならいくらでもする」と始末書を提出し、新日本プロレスに対する厳重注意で収まった。ミスター高橋は後年著書の中で、新宿襲撃事件はやらせだったと暴露している。いっぽうシンに荷担したビル・ホワイトもやらせだったと告白したが、「我々は良識の範囲内での襲撃を想定していたのだが、途中からシンが本気になってしまった」と語った。この事件は各方面で報道され世間でも話題になり、シンは本当に狂っているのではないかという印象を強く与えた。以後猪木はリング上で制裁を加えると公言し、猪木対シンの試合は「因縁の闘い」として世間の注目を集める事となった。

 ミスター高橋は著書の中で、シンは狂人どころか聡明で紳士的な人物だと強調し、ヒールとしてのキャラクターは完全に演技だと述べている。1996年、盟友上田馬之助が交通事故で車椅子での生活を余儀なくされたことを契機に本来の人格に戻ったが、それまではカナダとインドでチャリティーをやっていたことを隠していた。
 1979年、東京スポーツ主催「プロレス夢のオールスター戦」ファン投票で、「シン&ブッチャー組対猪木&馬場組」が1位に選ばれている。
 2005年にはカナダでドキュメンタリー番組「タイガー・シン:日本で最も恐れられた男」が放送された。
by 高橋 幸二 (2007-12-02 18:14) 

高橋 幸二

●2005年日加タイムズでの対談

――億万長者だそうですが、今さらリングにあがってケガをする必要も、痛い思いをする必要もないわけでしょう。なぜ闘うのか。

金のためではない。お金ばかりでなくすべての面で神は私を豊かに恵んでくださった。私がカナダにやってきたばかりのころは貧しくて金が欲しかった。だから何でも金が第一だった。だが、今では神が私をこれほど豊かに祝福して下さり、ここミルトンでももっとも恵まれた土地を100エーカーも与えてくださった。そのほかにも100エーカーの土地を所有している。君の言うことは100%正しい。今の私には金が目的ということはない。
だがね、レスリングというのは不思議なものだ。自分がトップレスラーでコンディションも申し分ないとしたら、レスリングはまるで毒、まるで病気、まるで麻薬。中毒みたいなものだ。そこからエスケープできなくなる。10年ほど前、私は完全にリングから足を洗おうとしたんだが、私からレスリングを取ったら何にもなくなっちゃうんだ。そりゃあ、ゴルフもやってみた。でもいったいいつまでゴルフを続けられるんだ。
私はじっとしていられないんだ。私の体はファイティング・マシンだ。今でも毎日、2時間ジョギング、それから休みなしで2時間のワークアウト。これは私の血肉の一部、麻薬のようなものさ。これからエスケープできない。

――あなたは日本のプロレス史上、最も凶暴な悪役プロレスラーとして知られていますね。観客席でサーベルを振り回したり、椅子を投げたりしてお客さんにけがをさせたりすることで悪名が高いのですが、なぜそんなに荒れ狂うのですか。

私が試合のため日本に行くときは、私の対戦相手は常に誰をとっても手ごわい連中ばかり。私のほかにマネジャーやセコンドなど数人が一緒に行くんだが、試合が近づくと彼らは私の脳髄にいろんなメッセージをしみこませようとする。一種の洗脳だな。
「タイガー、おまえは世界一強い男だ」「タイガー、おまえこそ本当のチャンピオンだ」「タイガー、おまえはベンガルの虎だ」「タイガー、お前は世界一危険な男だ」などと繰り返しわめいたり、ささやいたりしてマインドコントロールにかかる。そのあと、リングにあがる直前にマムシの生き血を赤ワインとミックスしたスペシャルドリンクを飲む。それから生の馬肉、牛肉、魚を食う。そうすると体中がカッカとなって燃えるように熱くなるんだ。背中をナイフで刺されたって何も感じないくらいだ。あとはただ1点に集中するのみ。汝の敵を破壊せよ! この一念だけに集中してほかは何も考えない。そうして歩き始めると私の視界に飛び込んでくるものは何でも破壊することになる。観客だろうが対戦相手だろうが関係なしだ。

――でも、お客さんにサーベルを振り回してケガさせたんじゃまずいんじゃないですか。カナダだったら傷害現行犯で逮捕されますよ。

実際、日本ではケガ人が何人も出ているんだ。もうコントロールがきかなくなっちゃっているからどうしようもないのだ。確かに君の言うとおり、カナダだったら警察沙汰になってブタ箱行きだろうな。
ところが日本のファンは違うんだ。この私に打たれた傷のあとを大事に大事に保存しておくというんだ。私に打たれたことが名誉なことだと感じる。だから、警察に届けたり、訴えたりなんていうことは日本では起こらない。

――リングに上がると狂虎、家に帰れば孫たちと仲良く遊ぶ好好爺、この二重人格性に悩むことはないですか?

いや、私はそういうふうには考えない。神が私を祝福してくれて二重の人格を与えてくださった。リングに上がるときの私にはレスラーとしての強烈なキャラクターを与えてくださった。ひとたび試合が終われば、すべてのことをリングの上に残してくる。リングの上で起きたどんなことも家には持ち帰らない。
ミルトンの家に帰れば、妻や息子や嫁、孫たちに囲まれて楽しく、和やかな生活を送る。神の恵みにより建坪1万5000平方フィートの家に住むことができた。親子3代、計14人がこの家に一緒に住んでいるんだ。全員が個室を持っているよ。

――これからのレスラーとしての目標は何でしょうか。

小川直也とリベンジマッチをやりたい。それから最大のライバル、アントニオ猪木には前から挑戦状を叩きつけているんだが、彼はどういうわけか逃げ回っているね。多分、この私が怖いんだろうね。
by 高橋 幸二 (2007-12-02 18:15) 

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