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過大評価された英雄 [自由党]


ピエール=エリオット・トルドー(1919~2000)
 第19代首相(1968年4月~1979年6月)
 第21代首相(1980年3月~1984年6月)

 (1) 前半生
 モントリオールで資産家の家に生まれる。父はフランス系、母はスコットランド系で、家では父に英語、母にはフランス語を話す生まれながらのバイリンガルだった。
 モントリオール大学で法律を学んだ後弁護士資格を取り、ハーバード大学で政治経済学修士号を取得。
 1948年、中東を旅行中、アラブ人のトラックに乗ってパレスチナに潜入しスパイ容疑で逮捕される。1949年、アスベスト鉱山ストライキに労働者側弁護士として関わり、逮捕される。共産主義経済会議出席のためモスクワを訪問中、スターリン像に雪を投げ逮捕される。このころ反体制雑誌「自由の街」編集長となり、デュプレシの抑圧支配を批判してジェラール・ペレティエ、ジャン・マルシャンとともに「ケベックの三賢人」と呼ばれる。1950年、アメリカから入国禁止となる。1960年、カヌーでフロリダからキューバへ渡航しようとして、80キロ地点で断念。1961年、まだ国交のない中国を訪問する。1961年、モントリオール大学准教授となる。
 1965年総選挙で自由党から出馬し、初当選を果たす。ピアソン首相の核配備を受け入れを批判したにもかかわらず、1967年ピアソン内閣の法務大臣に任命される。離婚・中絶・同性愛について寛容な姿勢を取り、国民の人気を博した。
 ピアソン首相が1968年の引退を発表すると、トルドーは党首選出馬を表明する。1965年に入党したばかりの彼は当選1回のアウトサイダーと見なされ、党内右派からも強い反発を受けたが、彼は当選し、首相に就任した。

 (2) 第一次政権:カナダ・アイデンティティの構築
 トルドーのアウトサイダー・イメージは若者の人気を呼び、「トルドーマニア」を生んだ。トルドー政権は1970年、西側諸国で最初に中華人民共和国と外交関係を結び、北京を訪問してニクソン大統領を激怒させた。ニクソンは後年、中国との交渉の仲介役にわざわざカナダを避け、ルーマニアを選んでいる。貧しい家から叩き上げでのし上がって来たニクソンは、金持ちでハーバード卒でバイリンガルでプレイボーイで、そのうえ容共主義のトルドーが大嫌いだった。後にウォーターゲート事件が発覚したとき、ニクソンが「あのトルドーのバカ野郎(asshole)」と語ったテープが公開されている。
 同年の十月危機では、戦時中でないにもかかわらず戒厳令を発令し、賛否両論を呼んだ。
 1971年には「多文化主義」宣言を行い、英仏二か国語を公用語と定め、1980年には「オー・カナダ」を国歌に制定して「カフェイン抜きのアメリカン」などと評されたカナダ人のアイデンティティ構築に努めた。だがトルドー自身は後に、全てのカナダ人が二か国語を話すよう要求するかのような印象を与えたため「バイリンガリズム」という用語を使用したことを後悔していると語った。

 (3) 華麗な交友関係
 1969年のクリスマス・イブに、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻がトルドー首相を訪問した。このときレノンは「全ての政治家がトルドーのようだったら、世界は平和になるだろう。カナダ人は彼のような人材を得てどれほど幸運なことか」と語った。
 トルドーは1971年、シンクレア水産大臣の娘マーガレットと電撃結婚し、現職首相として唯一結婚した人物となった。だがいっぽうでは女優バーブラ・ストライザンドを公共の場に同伴し、オンタリオ州首相ボブ・レイの姉妹ジェニファー、リオナ・ボイド(ギタリスト)、マーゴット・キッダー(女優)、キム・キャトラル(女優)とも交際するなど浮気癖が直らず、マーガレット夫人は精神科に入院したこともある。その夫人もエドワード・ケネディ上院議員やローリング・ストーンズのロン・ウッドと関係し、1984年ついに離婚する。こうしてトルドーは現職首相として唯一離婚した人物となった。

 (4) 第二次政権:社会主義の影響
 1972年総選挙では、7.1%の失業率、5.3%のインフレが話題となった。結果は定数264議席のうち自由党109、保守党107、新民主党31、社会信用党15と史上最大の接戦を際どく制したトルドーが少数政権を組織することになったが、新民主党の閣外協力が不可欠となった。それゆえ第二次トルドー政権には、外国資本の参入を規制する外国投資審査庁の設置や、カナダ石油公社の設立など、社会主義的政策が見られる。
 その後支持率の上昇を見た彼は、予算案編成について新民主党の要求をわざと拒み、1974年下院で内閣不信任案を可決させた。解散を受けてその年行われた総選挙では自由党が141議席と過半数を回復し、安定政権を築くことに成功した。
 だがその後景気は悪化し、財政赤字は増大し続けた。妻との別居や妻の自伝がゴシップとなり、1979年総選挙の投票日前日にはマーガレット夫人がナイトクラブで踊っている姿が目撃され、その写真が翌日あらゆるメディアで公表された。トルドー自由党はジョー・クラーク率いる進歩保守党に敗れ、トルドーは党首辞任を表明したが、次の党大会で党首が選任されるまで党首に留まることにした。だがその前に、その年のうちにクラーク内閣が不信任されたため、トルドーは党首に留まり、選挙を戦うよう説得された。

 (5) 第三次政権:西部の疎外
 翌1980年の総選挙でトルドーは進歩保守党を破り、政権を奪回する。だがこの選挙は、カナダを東西に大きく分断することとなった。自由党は地盤のケベックで75議席中74議席を獲得したが、西部ではマニトバで2議席を得ただけで、サスカチュワン以西では議席を得られなかったのである。
 彼はアメリカとの自由貿易を否定し、アメリカ資本への従属を阻止するためカナダ経済を囲い込む政策を取ったが、西部諸州は遠い中部と取引するよりアメリカ西部と取引する方が有利だったから、西部では不評だった。また第二次オイルショックを受けた、石油利潤を各州に再分配する「国家エネルギー計画」の導入は、西部を激怒させ「西部の疎外」を生んだ。アルバータ州は国家エネルギー計画によって、500億ドル以上の歳入を失ったと考えられている。だがトルドーは中西部に議席がなく、自由党の地盤にならないことがわかっていたため、彼らがどんなに嫌がる政策でも痛みを伴わず実行できたのである。
 1982年には、彼の最大の功績とも言える新憲法制定を実現させた。旧憲法に欠けていた人権に関する規定を定めたほか、イギリスの同意なしにカナダ独自で憲法改正できるようになり、カナダはここに完全独立を達成する。だが当初ケベックに約束されていた「特別な地位」は土壇場で反故にされ、ケベックは新憲法の批准を拒否した。自由党は歴史的にケベックを強固な地盤としてきたが、1982年憲法制定以後は、連邦議会で一度もケベックで最多議席を獲得できていない。
 1981年には失業率が8%と戦後最大の水準に達した。財政赤字はトルドーが首相に就任した1968年には180億ドル(GDPの24%)だったのが、1984年には2000億ドル(GDPの44%)にも膨れ上がっていた。トルドー内閣支持率は1982年憲法制定から下降を始め、1984年の初めには、世論調査はトルドーが総理・総裁に留まるなら自由党は確実に総選挙で敗北することを示した。彼は6月に総理・総裁を辞任し、政界を引退した。

 (6) 引退してなお影響力
 引退してもなおトルドーは英雄であり、隠然たる影響力を保持していた。マルローニ首相が提唱した、ケベックを憲法体制に取り込むための憲法改正試案であるミーチレイク協定とシャーロットタウン協定は、1982年憲法を制定したトルドーの功績を修正する行為にほかならず、ケベック文化を「尊重される文化」、先住民に「特別の地位」を規定するのは国民平等の観点からも問題だと、トルドーは引退した身でありながら公然と2つの協定に異議を唱え、いずれも廃案に追い込んだ。トルドーもマルローニもケベック独立を阻止し連邦を維持する立場に違いはなかったが、その手法はあまりに違い過ぎていた。
 トルドー首相は公用語・国歌・憲法を制定しカナダ・アイデンティティを構築するなど、その15年の治世においてスーパースターとしての揺るぎない地位を確立したが、経済に弱く、カナダ経済を囲い込む「経済ナショナリズム」政策は失敗に終わり、トルドーは過大評価されているきらいがある。
 彼は政権末期にはケベックの恨みを買い、西部の憎しみを買った。この両者は本来敵対関係にあったが、進歩保守党のマルローニ首相は、両者のトルドーに対する恨みに巧妙に乗じ、ケベックには憲法上の特別の地位を、西部には国家エネルギー計画の廃止と自由貿易を約束して、ケベックと西部の「大連立」という歴史的和解を実現し、1984年総選挙で大勝利する。だが既述の通り、前者は2つの憲法協定の破綻、後者は戦後最大の不景気と西部の離反を招いた。この2つの災難の元凶が実はトルドーにあることは、カナダ史のタブーとして意図的に伏せられているようだが、この2つが進歩保守党を崩壊に導き、自由党一党支配を確立させたのがトルドーの「功績」だと言っては、故人に対しあまりにも気の毒というものだろうか。
 またトルドーは政権末期に対米関係をこのうえなく悪化させたが、マルローニ首相はレーガン大統領とアイルランド系同士、ネオコン同士でウマが合い、史上かつてないほどアメリカ寄りの政策を取った。これはもちろんアメリカ嫌いのカナダ人には不評だった。
 歴史家マイケル・ブリスは、トルドーを「最も賞賛され、最も嫌われた首相である」と述べている。

写真上左:バッキンガム宮殿にて。女王の死角でバレエを踊るふりをしておちょくるトルドー首相。フランス系の彼にとって、イギリス国王など何ほどの意味もなかった。
写真右:エリザベス二世が1982年憲法に署名するのを見守るトルドー首相。新憲法は総督を「事実上の」国家元首と規定し、国王は象徴的存在となった。これは憲法がイギリスからカナダに移管された瞬間であり、そして女王がカナダを手放した瞬間でもあった。
写真中左:30歳年下のマーガレットとの挙式。
写真中右:バーブラ・ストライザンドを同伴するトルドー首相。
写真下:カナダの美人ギタリスト、リオナ・ボイドとのデートを楽しむトルドー首相。


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