SSブログ

「ハフィントン・ポスト」エリン・オトゥール議員(保守党)のコラム [保守党]

 「前人种樹、后人乗凉」(先人が木を植え、後人がその陰で涼む)
 この中国の諺は、一つの世代がそれに先行する世代から受ける遺産について述べている。我々が今過ごしているカナダは、我々に先行した男と女によって創られた。これらの人々と時代への我々のつながりは、我々が共有する国の地理と歴史と遺産である。
 この遺産はしばしば、我が国の先住民や、初期入植者や、カナダのために犠牲となった勇敢な奉仕者の物語として語られる。口承と文字で伝えられる歴史を越えて、我々の文化遺産は、我が国をその過去とつなぐ象徴、芸術、詩や歌を通しても表現される。
 中国の諺の単純さと優雅さは、カナダの国歌を変えようとするトルドー政権において失われるように見える。この新政権は、就任からわずか7か月後にして一方的に、受け継いだ文化遺産を書き直すか作り直す権利があると信じている。
 彼らが国歌変更の議論を作っているやり方は、さらに問題である。
 第一に彼らは、法案を提出した議員が重病を患っているという理由で、実質的な審議なしに下院を急いで通過させようとしている。全ての議員には彼とその家族への深い同情があるが、彼の病気は国民がこの問題に関して意見を述べる場を除去する理由にならない。ベランジェ議員は、法案支援を続けるため今日下院に戻った。そしてたとえ私が法案に同意しないとしても、私は彼の献身に深く敬意を表する。彼がこのように審議をなくしたいと望んだとは、私は思わない。
 第二には、この法案を擁護する人々の多くが、現在の国歌が女性を差別しているという考えに基づいている。もちろんそれは、誤りであるだけでなく不当である。 “in all thy sons command”(汝が息子ら全てにせしめよ)の歌詞は全く差別ではなく、それは特定の時代の詩や韻文における言葉の反映である。その言葉が古いため、その言葉は今日古くさく見える。それは、我々を過去とつなぐものである。そして実在しない歴史的侮辱を提案することは、我々の歴史を害する行為である。
 「オー・カナダ」のルーツは1880年、ケベック副総督が重要なサン・ジャン・バチストの日を祝福するため制作依頼したときにさかのぼる。詩人で裁判官だったアドルフ=バジル・ルティエ卿によって作詞されたオリジナル仏語詞は、若い国の市民を結集し、彼らの国への誇りを浸透させる試みだった。
 大多数の国歌のように、それは軍国主義的で、民族主義的で、国家が正義あるいは聖職者の側にあるかのように暗示する。それは、血にまみれた戦場や爆発する爆弾を歌うフランスやアメリカの国歌ほど軍国的ではなくても、国歌は市民に彼ら自身より大きい何かを守るよう訴える傾向がある。
 フランスやアメリカの国歌のように「オー・カナダ」は、発展しつつある国、その国民と理想を擁護するため、若い国の中で人々をまとめた愛国的な歌だった。「オー・カナダ」は1980年、それが最初に書かれてから100年後に我々の公式の国歌になった。「星条旗」が作詞されて117年間、アメリカの国歌にならなかったことに似ている。国家と国民は、彼らの国歌を政治家が公式に制定するずっと前に受け入れる傾向がある。「オー・カナダ」の仏語と英語のバージョンと、カナダの2つの建国民族によるその承認は、より古くより人気があった英語のみで書かれた歌「メープルリーフ・フォーエバー」を制して公式な国歌になった。
 「オー・カナダ」の原語はフランス語で、変更されたことがない。1880年以降、様々な英訳が成されてきたが、ロバート・スタンレー・ウィアによる英語バージョンは原語のテーマに最も忠実なものとして、人気を博した。ウィアはルティエと同様に裁判官で詩人で、1908年に英語詞を書き、1913年にそれをわずかに修正した。ウィアによる英語詞は、決して仏語オリジナルの直訳を目ざしたものではなく、軍国的で愛国的なテーマを通し同じ情熱を呼び起こそうとした。
 今日提案されている修正は、何人かが提唱するようなオリジナルの歌詞に復するものではない。それは、第一次大戦において人々に入隊を薦めるために歌詞を変更したと主張するのと同様に誤っている。ウィアは歌詞を開戦前に変更したのであり、またいくつかの文書は彼が歌詞をより古いバージョンの一つに戻したことを示している。法案は議会を急いで通過しつつあるので、文化遺産委員会は歌詞変更の真のオリジナルについてウィアの孫から事情を聞くことができなかった。2・3分の間傍聴することを許可されたある歴史家は、歌詞を除去することをもくろんだ提案を鎮めた。
 もしも国家がその象徴である文化遺産を、書かれたり作られたりしたあとで修正したり解剖したりするなら、どこでこの運動は止まるのか。連邦結成以降、カナダにおける先住民へのひどい記録が見つかると、何人かは英語詞から“native land”を取り除くことを主張した。
 別の人々は歌詞の“God”を、それが(※原語詞にはなく)後で追加されたものであり、また政教分離の必要のため取り除くことを提案した。また別の人々は、国歌はあまりに軍国的だと非難した。これらの提案は通常英語詞のみに言及されるが、同じ問題はオリジナル仏語詞にも見られる。それは我々の祖先の土地に言及し、軍国的なテーマとともに宗教的歌詞を混ぜる。2つの歌詞は異なる語を用いているが、若い国の草創期に根ざした同じイメージを使っている。
 先週の採決まで私は、「オー・カナダ」からの除去を提案する人に出会ったことはなかった。これは、ユニフォームを着て我々の国歌に敬意を表した例外的な女性たちとともに奉仕した12年間を含む。
 我々の国が表すものを受け入れ、それが呼び起こすはずである熱烈な愛で国歌を経験する誰でも、カナダの経験の一部である。我々の国歌は、我々の歴史と文化遺産との我々の関係である。そして、我々の国歌にある接続を議論するとき、両方とも理解されなければならない。我々の文化遺産に忠実なままでいることは、その時代からの社会的価値観や基準の抗弁ではなく、国としての我々の成長の証しである。我々が歩き去るとき、枝を切ることなく木陰を快適に歩けることを我々の世代が誇りに思えるよう、私は望んでいる。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

nice! 0

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0