SSブログ

カナダの著名な議事妨害

●イギリス海軍援助(1913年)
 ヨーロッパの緊張が高まった1912年、ボーデン首相はイギリス海軍に3500万ドルを支給することに同意した。
 野党自由党はこれに強硬に反対し、1912年12月から1913年5月まで議事妨害を行った。ボーデン首相は「我々はもう十分審議を尽くした」と述べ、カナダ史上初めて審議の終了を宣言した。
 法案は2週間後、自由党が過半数を占める上院で否決された。


●トランスカナダ・パイプライン(1956年)
 アルバータからカナダ中部まで続くトランスカナダ・パイプライン建設計画について、与党自由党は議事妨害が始まってもいないうちに、審議終了を宣言した。野党進歩保守党の議員たちは「口を封じられた」と抗議し、政府は議会手続きを無視して、アメリカの投資家にへつらっていると非難した。
 審議は5月8日から6月6日まで、およそ1か月続いた。ピアソン外務大臣は「もし彼らが本当に口を封じられたのなら、史上最も口うるさい『口を封じられた人たち』であろう」と述べた。
 1958年、パイプラインが完成する前に自由党は野党に転落した。


●国旗論争(1964年)
 アングロフォンの政治家たちが言い争うのを、フランス系カナダ人は座して見守っていた。問題は、カナダの国旗は植民地の過去を讃えるべきかどうかであった。野党進歩保守党のディーフェンベーカー党首は、左上にユニオン・ジャックの入った自治領旗に固執し「国旗は民族の創生を讃えるものでなければならない」と主張したが、ピアソン首相は、それではフランス系カナダ人が国家に誇りを持てないだろうと懸念した。
 この問題についてディーフェンベーカーは国民投票を提案したが、ピアソンは超党派による委員会を設置した。1964年10月29日、委員会は2600件の応募作品の中からジョージ・スタンレーによるメイプルリーフの図案を満場一致で採択した。しかし進歩保守党はこれに強く反発し、議事妨害に打って出た。政府は審議の終結を一方的に宣言し、新国旗法案は1964年12月15日下院で可決され、上院でも2日後に可決され、翌年1月28日にエリザベス二世の勅裁を得て成立した。法律は1965年2月15日に発効し、この日行われたセレモニーで初めて国会議事堂に掲揚された。


●メトロ・トロント合併(1997年)
 オンタリオ州議会は1997年、メトロ・トロント6市(トロント、エトビコーク、イースト・ヨーク、スカボロー、ノース・ヨーク、ヨーク)を合併させる103号法案を提出した。だが住民の多くは反対し、住民投票が行われたが、有効票数の4分の3、有権者の3分の1に当たる人々が反対を表明した。
 オンタリオ新民主党はオンタリオ自由党と共謀し、法案に1万3000件もの改正案を提出し、2週間に及ぶ審議を行った。グローブ&メイル紙は「民主主義の寛容が、このような挑戦に耐えることはほとんど考えられない」と報じた。
 それでも法案は可決され、1998年新しいトロント市が成立した。トロントはメキシコシティ、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスに続く北米第5の面積を持つ市となった。だが合併以降も、郵政公社や電力会社など多くの組織は、旧行政区の名を使い続けている。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

nice! 0

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0