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海賊の街【サン=マロ】 [旅行記]

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 サン=マロは、海に突き出した独特の地形が要塞化された街である。ランス川河口を見張る要塞はローマ時代以前からあったもので、現在の市街地は6世紀に、聖アーロンと聖ブレンダンが設立した修道士の居住地が原型である。聖ブレンダンの弟子聖マロが街の語源になった。
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 フランスでは有名な保養地で、マリンスポーツのメッカでもあるサン=マロは、日本では近年「のだめカンタービレ」で注目されるようになったが、16世紀には海賊「コルセール」の根拠地として悪名を馳せた。フランス王は、敵対するイギリスの船からの掠奪に勅許を与えたのである。サン=マロは掠奪によって大いに栄え、誰の支配にも属さない自立の気風は、やがて1590年の「フランス人でもなく、ブルターニュ人でもなく、マロ人である」という独立共和国宣言に至り、4年間事実上独立を維持した。

P1010252.JPG 市内の「ケベック広場」には、「海賊王」と呼ばれたロベール・シュルクフの銅像がある。この街出身の最も有名な海賊で、フランス革命期からナポレオン帝政、王政復古の時代を股にかけ、47隻もの船から掠奪した。ナポレオンも彼から軍資金を借りるほどの大金持ちになり、また彼の首には500万フランの賞金がかけられた。
 彼はイギリスの軍人に「貴様らフランス人は金のために戦うが、我々英国人は名誉のために戦うのだ」と言われると、「何だと、人は自分に欠けているもののために戦うのだ!」と言い放ったという。
 なおシュルクフは、ケベックとは何の関係もない。

P1010237.JPG 海賊ではないが、この街の出身で最も有名な人物といえば、ジャック・カルチェである。フランソワ1世の命により、1534年の最初の航海で、ニューファンドランド島、プリンス・エドワード島、ガスペ半島を探検。イロコイ族の首長ドンナコナの息子ドマガヤとタイニョアニを捕らえ、フランスに連行した。
 1535年の2回目の航海では、イロコイ族の村スタダコナ(現在のケベック)に到達し、その周辺を「カナダ」と命名した。さらに上流に向い、ホチェラガ(現在のモントリオール)に到達し、そこをモン・レアルと命名した。カルチェはこのとき、さらに北には黄金の国サゲナイがあると聞かされた。
 1541年の3回目の航海では、黄金郷サゲナイを探したが見つからず、厳しい冬を越した後帰路に着いた。
 かくしてカルチェは、(ニューファンドランド島を除く)カナダ本土の発見者と考えられている。だが実際には、ノルウェー人、バスク人、ガリシア人、ブルターニュ人によってすでに発見されていたと考えられている。カルチェは未知の世界を航海するのに1隻も船を失うことがなく、死者もほとんど出さなかったのは、彼が優れたスキルを持った良心的な船乗りであることを示している。
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 サン=マロ郊外にある「リモエルー」は、彼が1541年に購入した邸宅で、現在はジャック・カルチェ博物館となっている。彼の銅像は海を臨む「オランダ砦」に立てられているが、「ケベック広場」でないのは何かの手違いとしか思えない。

 サン=マロが生んだ探険家としてもう一人、ジャック・グアン・ド・ボーシェーヌがいる。彼はフォークランド諸島を探検し、フランス語で“Îles Malouines”(マロ諸島)と命名した。これがスペイン語の「マルビナス諸島」の語源となった。

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 12世紀に築かれた城壁からは、雄大な海の眺望が広がる。海岸線から少し離れた沖にはグラン・ベ島とプチ・ベ島が見える。グラン・ベ島は、干潮時には歩いて渡ることができるが、そこにはサン=マロ生まれの作家で後に政治家となったフランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアンの墓がある。彼はシャトーブリアン・ステーキの語源となった人物である。


写真上から
・サン=マロの街を囲む城壁
・サン=マロ海上の要塞
・ケベック広場のロベール・シュルクフ像。
・ジャック・カルチェ像。
・リモエルー。
・グラン・ベ島(右)とプチ・ベ島(左)。
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