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ノルマンディ上陸作戦【クルセーユ=シュル=メール】 [旅行記]

 (1) 史上最大の作戦
 ノルマンディ上陸作戦は、300万人近い兵員がドーバー海峡を渡りノルマンディーに上陸した史上最大の上陸作戦である。
 フランスが降伏すると、ドイツの戦力のほとんどがソ連に向けられることとなり、ソ連は自国の脅威を緩和するため、イギリス・アメリカに対しヨーロッパに第二戦線を築くことを要請した。連合軍は、1942年のカナダ軍によるディエップ攻撃失敗から、最初の上陸でフランスの港を直接攻撃しないことに決定した。上陸予定地はパ=ド=カレーかノルマンディしかなく、パ=ド=カレーの方が近いが守備が堅いため、ノルマンディに決定した。ラ・マドレーヌからウィストラムまでをユタ・オマハ・ゴールド・ジュノー・ソードの5つの区間に分け、ユタとオマハをアメリカ軍、ゴールドとソードをイギリス軍、ジュノーをカナダ軍が担当した。連合軍の侵攻計画は、初日にカランタン、サン・ロー、カーンおよびバイユーを確保し、ユタとソード以外の海岸を連携させ、海岸から10 ~16キロ進軍することであった。
 作戦開始の前兆として、レジスタンスに宛ててBBC放送が1944年6月1日、ヴェルレーヌの詩「秋の歌」第一節の前半“Les sanglots longs des violons de l'automne”(秋の日の ヴィオロンの ためいきの)を朗読した。これは決行前の1日か15日に放送され「連合軍の上陸近し。準備して待機せよ」という暗号だった。
 決行予定日は5日だったが、ドーバー海峡が暴風雨に見舞われたため、1日延期となった。ドイツ軍は悪天候が9日まで回復しないと予想したが、連合軍は大西洋に気象観測基地を持っていて、6日に天候が回復すると予測していた。こうして6月5日、「秋の歌」第一節の後半“blessent mon cœur d'une langueur monotone”(身にしみて ひたぶるに うら悲し)が朗読される。これは「放送された日の夜半から48時間以内に上陸開始する」という暗号だった。

 (2) 作戦開始
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 作戦は夜間の落下傘部隊降下から始まり、次に上陸予定地への空襲と艦砲射撃、それから上陸用舟艇による敵前上陸の順序である。まず海岸付近のドイツ軍を攪乱し、上陸部隊の内陸進攻を容易にするため、イギリスとアメリカの空挺師団がノルマンディー一帯に降下を開始した。だが夜間で視界は悪く、降下が早すぎた者ははるか後方に着陸し、遅すぎた者は海に落ちて溺死した。ドイツ軍は空挺部隊の降下を妨害するため、この地方の川をせき止めて沼を作っており、相当な数の兵士が沼に降下して溺死した。アメリカ軍第82空挺師団はサン=メール=エグリーズに降下したが、何人かは町の後方ではなくドイツ軍の守る市街地真っ只中に降下し、餌食となった。ジョン・スティール二等兵は、パラシュートがサン=メール=エグリーズ教会の塔に引っかかり、翌日まで死んだふりをしていた。彼をかたどった人形が、今も教会に吊り下げられたままである。
 連合軍は攻撃を開始する前に、陽動作戦としてパ=ド=カレーを攻撃していた。ドイツ軍は、連合軍の攻撃はパ=ド=カレーだと予想して主力をそこに配備していたし、しかも機甲師団はヒトラー直接の命令でなければ動かせない決まりになっていた。ヒトラーの寝起きが悪いのは有名で、誰も彼を早朝に起こそうとしなかったので、ドイツ軍の対応は遅れた。

 (3) カナダ軍、ジュノー・ビーチに上陸
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 艦砲射撃に続いて、7時45分ころ上陸部隊がジュノー・ビーチへの上陸を始めた。ジュノー・ビーチとは、クルセーユ=シュル=メールからサン=トーバン=シュル=メールまでの海岸である。この区域は、5つの区間のうちオマハ・ビーチに続き2番目に防御が強固な区間であった。海中の障害物はオマハ・ビーチの2倍の高さがあり、海には機雷が大量に敷設されていた。そして上陸したカナダ軍は、11基の155ミリ砲重砲台と9基の75ミリ砲中砲台、さらにトーチカと無数のコンクリート堡塁に直面する。上陸前には爆撃と艦砲射撃が行われたが、オマハ・ビーチとジュノー・ビーチでは、ドイツ軍の要塞にほとんどダメージを与えなかったため、この2つの区間は他の区間に比べ大きな犠牲を払うことになった。P1010823.jpg
 歩兵を掩護するため水陸両用戦車を先に上陸させる予定だったが、海が荒れているため多くは海に沈んだ。上陸すると何もない見通しのよい砂浜が続き、その向こうにはドイツ軍の待つ小高い丘があって、上陸した兵は何の遮蔽物もないうえ、上から丸見えであった。上陸した兵が生き残れるかどうかはほとんど運次第であり、最初の1時間で50%が死傷した。
 このような困難にもかかわらず、カナダ軍は数時間の内に海岸部を占領し、内陸への進軍を始めた。第6カナダ機甲連隊は、15キロ内陸のカーン-バイユー間のハイウェーと交差するという目的を達成した唯一の連合軍部隊となった。
 クルセーユ=シュル=メールには現在、カナダの軍事博物館「ジュノー・ビーチセンター」がある。
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写真上から
・ジュノー・ビーチ。
・ドイツ軍のトーチカ。
・カナダ軍によって最初に解放された家。
・クルセーユ=シュル=メールの街角に展示されている戦車。
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