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スティーブン・ハーパー首相プロフィール [保守党]

2211516●Stephen Joseph Harper(1959~ )
 第27代首相(2006年2月6日~)

 1959年トロント生まれ。家族はローリーン夫人と一男一女。カルガリー・サウスウェスト選挙区選出下院議員。2006年2月6日、カナダ首相に就任。
1978年トロント大学に入学するが2か月でドロップアウトし、アルバータのインペリアル石油に勤めた後、1985年カルガリー大学で経済学を修め、1991年カルガリー大学修士課程を修了。
 高校生のころ自由党のトルドー首相に憧れた彼は、自由党青年団に所属していたが、トルドーが推進した石油利潤を各州に再分配する「国家エネルギー計画」は、若い日の彼には納得できなかった。1985年進歩保守党のジム・ホークス議員の秘書となるが、同党のブライアン・マルローニ首相のケベック優遇に幻滅し離党し、1987年の改革党創設に参加する。
 党創設大会での演説でプレストン・マニング党首に注目されたハーパーは、若干20代で政策委員長に抜擢される。1988年総選挙ではマニフェストの作成を任されたが、全員が落選。ハーパーもカルガリー・ウェスト選挙区で、かつて仕えたホークスに挑んだが落選した。
 1993年総選挙で、ホークスを破り初当選。だが改革党は西部のための党にすぎず、大票田の中部では全く受け容れられなかった。また改革党が極右に傾いていくことに、ハーパーは危機感を抱いた。そして彼自身は同性婚に反対にもかかわらず、政党は良心の問題に立ち入るべきでないと主張した。1995年には進歩保守党の一派が、シャレー党首とマニング党首を追放してハーパーの下で新党を結成しようと謀る事件が起きた。ハーパーはやがてマニング党首と対立するようになり、1997年議員を辞職し、2000年総選挙にも出馬せず国政の第一線から身を引いた。
 その後結成された新党カナダ同盟の党首に、2002年3月就任し、同年6月の補選で当選し国政に復帰。2003年12月には、老舗の進歩保守党との保守合同を実現してカナダ保守党を結成し、党首に選出された。
 彼が党首として心を砕いたことは、悲願の政権交代であり、そのための中部進出、そして極右から中道右派への路線転換だった。彼は2つの党の間でバランスを保つため、新党の綱領に妊娠中絶反対・フランス語公用語化反対を盛り込むことを阻止した。こうして新党結成後まもなく挑んだ2004年総選挙では、政権獲得はならなかったものの、改革党では成し遂げられなかった中部での議席獲得を実現し、政権交代可能な二大政党の一角としての存在感を示すことに成功する。そして与党自由党の汚職を受けて行われた2006年総選挙で勝利し、12年ぶりの保守政権を樹立した。

 カナダ首相は圧倒的に弁護士出身が多いが、ハーパーはロースクールを卒業していない。またカトリックが多いなか、ハーパーは福音派クリスチャンである。大学を中退していること、自由党・進歩保守党・改革党いずれも主流になり得なかったことなど、ハーパーの経歴はエリートにはほど遠い。
 だが彼の独特の経歴・バランス感覚は、右翼のカナダ同盟と中道右派の進歩保守党の合同において、重要な資質となっている。保守党政権は同性結婚廃止を公約していたが、2006年12月に野党の反対で頓挫すると、ハーパー首相は「将来この問題を蒸し返すことはしない」と約束した。また2006年11月、ケベック連合提出の「ケベック人は国を構成する」動議についても、他党に反対させるための謀略と見抜き、「ケベック人はカナダの中で国を構成する」という修正動議を提出し、ケベック連合を逆に反対に回らせた。
 人権問題には独特の対応を見せる。中国系移民への人頭税について2006年6月に謝罪し、誤った情報を提供したためシリア系カナダ人がシリアで投獄された事件についても2007年1月に謝罪、カナダ国籍のウィグル人活動家が中国で拘束され2007年4月に起訴された件では中国に抗議している。2007年11月には日本の慰安婦非難決議に同調し、2008年6月には先住民への同化政策について謝罪、2008年8月には北京オリンピックボイコットは拒否したものの、開会式への出席を見合わせた。
 そのほか、就任以来の好景気を背景に2年連続で消費税を引き下げている。環境問題については、産油州アルバータを基盤としていることから、京都議定書の目標達成には及び腰である。
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