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カナダ・デー

1889514
 7月1日の「カナダ・デー」は、1867年のカナダ連邦結成を祝う日である。

 1812年戦争では首都ヨーク(現トロント)が焼かれ、1837年にはカロライン号事件が起こった。そして1861年にはついにアメリカで南北戦争が勃発し、ジョン・マクドナルドら建国の父たちは、英領北アメリカの諸州がバラバラではアメリカの軍事的脅威に対抗できないと考え、連邦結成に動き出した。マクドナルドは、連邦はフランス系も含み、また大西洋から太平洋までのすべての植民地を含めるべきだという「大連邦」を構想していた。ところがニューブランズウィック首相サミュエル=レナード・ティレイ、ノバスコシア首相チャールズ・タッパー、プリンスエドワード島首相ジョン=ハミルトン・グレイは、東部3植民地による「マリタイム連合」について協議するため、1864年にシャーロットタウン会議の開催を予定していた。オンタリオとケベックが合体した連合カナダ植民地は、人口・面積ともに巨大であり、それを含んだ連邦に参入することは、連合カナダの影に埋没することになるからである。
 マクドナルドはあくまでも大連邦を実現すべく、政敵だったジョージ・ブラウンそしてジョルジュ=エティエンヌ・カルチェと「大連立内閣」を形成し、シャーロットタウン会議への参加を実現させる。そしてすべての英領北アメリカ植民地による連邦結成を訴えた。翌月のケベック会議では、ニューファンドランドをも含めた5植民地が連邦結成の骨子となる「ケベック決議」を採択した。
 大連邦結成について、フランス系急進派やマリタイム住民が反対したが、1866年にフェニアン侵攻事件が起き、連邦結成への強い追い風となり、マクドナルドら大連邦派はついに反対派を説き伏せた。
 こうしてオンタリオ、ケベック、ニューブランズウィック、ノバスコシアの4州からなる「カナダ自治領」(Dominion of Canada)の諸制度を定めた英領北アメリカ法(旧憲法)の法案が作成された。マクドナルドらは“The Kingdom of Canada”と命名したかったようだが、アメリカの反発を恐れこの名称になったという。「ドミニオン」の名称は聖書の詩篇72篇8節“He shall have dominion from sea to sea(その支配は海から海へ)”に由来しており、マクドナルドの「大西洋から太平洋まで」の大連邦構想をよく表している。
 法案は1867年2月11日、ビクトリア女王に提出され、翌日イギリス上院に上程され可決された。その後イギリス下院でも可決され、3月29日女王の勅裁を得て法案成立し、7月1日に施行されるものとした。
 マクドナルドは7月1日、連邦初代首相に就任した。

 7月1日が祝日となったのは1879年で、連邦結成50周年の1917年まで公式の祝典は開催されなかった。第一次世界大戦まで、人々は自分自身を英国臣民とみなし、カナダ・ナショナリズムはまだ成熟していなかったからである。
 連邦政府が「ドミニオン・デー」を祝うようになったのは1958年からであり、1967年のカナダ建国百年祭は、特に盛大に祝われた。1980年以降、カナダは首都オタワを越え、7月1日を全国で祝うようになり、全国の都市に補助金を与えるようになった。 1982年には、この年の「カナダ法」と憲法移管の影響を受け、植民地的響きのある「ドミニオン・デー」はこの年10月27日、「カナダ・デー」と改称された。
 7月1日はまた、カナダ人にとって別の趣きがある。1980年のこの日、“O Canada!”が国歌に制定された。1923年には「中国人移民法」が導入され、1947年に廃止されるまで中国系カナダ人は、この日を祝うことをボイコットしていた。1916年にはソンムの戦いでニューファンドランド自治領軍が玉砕し、この日はニューフィーズにとって戦没者を追悼する日となっている。


写真:シャーロットタウン会議。中央の座っている人がマクドナルド。
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