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シーア党首は生き残れるか [保守党]

 総選挙後最初の保守党幹部会が、11月6日に召集された。この席で、リーダーシップチェックを要請する権限を幹部会に与える党則改正が採決され、否決された。これにより、リーダーシップチェックは2020年4月の党大会で実施されることになり、シーア党首はそれまで留任できることがほぼ確実になった。
 シーア党首は総選挙で議席を増やしたが、与党に多くのスキャンダルがあり、得票率1位だったにもかかわらず政権奪取できなかった。特に、議席の多いオンタリオとケベックで惨敗したことで、そのリーダーシップを疑う声が大きくなっていた。
 リーダーシップチェックは、全党員が参加できる党大会で実施するのが通例だが、保守党はこの日、幹部会(上院議員と下院議員)の20%の要請があればリーダーシップチェックを実施できるとする党則改正について採決した。これは、シーア党首をただちに引きずり降ろしたいと憤る議員が何人かいることを示している。
 ガーネット・ジェニュイス議員は、この動きを疑問視した。
「私は、この種の問題について幹部会がルールを覆すことは支持できない。次の党大会でリーダーシップチェックがあるから、幹部会のメンバーではない党員たちの意見を尊重すべきだ。」
 だがケベックの上院議員たちは、前日独自に会談の場を設けていた。シーア党首は最初のフランス語討論で、保守党政権になれば妊娠中絶非合法化の議論が再開されるのかと問われると「その問題は『発展したまま』にしておく」などと不明瞭で歯切れの悪い答弁に終始した。ジャン=ギ・ダジュネ上院議員(ケベック代表)は、最初のフランス語討論はケベックの保守党にとって「壊滅的」であり、シーア氏が党首のままではケベックで勝てないと断言した。クロード・カリニャン上院議員(ケベック代表)も、シーア党首を含め執行部が変わらないかぎり、ケベックとオンタリオの主戦場で勝つことは難しいと語った。
「ケベックでは、我々の選挙は最初の週で終わっていた。」
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 シーア党首は総選挙に敗北した夜、支持者に語った。
「2004年の、ハーパー党首最初の総選挙を思い出せ。」
「彼はマーチン首相から過半数を奪い、その後10年間の保守党政権への道を拓いた。」
 最大野党党首が最初の総選挙で負けることは、珍しくない。シーア党首は、最初の総選挙に負けた15人目の最大野党党首である。この中には、ウィルフリッド・ローリエやロバート・ボーデンのような、後にお札の肖像になるほどの名宰相たちも含まれる。もちろん、一度も勝利できず総理の椅子を手に入れられなかった多くの人々も含まれている。
 最初の総選挙に負けた最大野党党首15人のうち、1人はケベック連合のジル・デュセップ党首である。ケベック連合はケベック州にしか候補を立てないので、絶対に過半数を獲れない。彼は1997年総選挙で44議席を獲得し、野党第2党に転落したが、ケベックでは第一党を維持し、留任している。
 15人のうち6人は、2度目のチャンスを与えられなかったか、もしくは自ら放棄した。ロバート・マニオン(国民保守党、1940年)、ジョン・ブラッケン(進歩保守党、1945年)、ストックウェル・デイ(カナダ同盟、2000年)、ステファン・ディオン(自由党、2008年)、マイケル・イグナティエフ(自由党、2011年)、トム・マルケア(新民主党、2015年)である。
 15人のうち7人は、2度目のチャンスを与えられた。そのうち5人は、2連敗を喫した。エドワード・ブレイク(自由党、1882年と1887年)、ロバート・ボーデン(保守党、1904年と1908年)、ジョージ・ドリュー(進歩保守党、1949年と1953年)、レスター・ピアソン(自由党、1958年と1962年)、ロバート・スタンフィールド(進歩保守党、1968年と1972年)である。
 3度目のチャンスが与えられたのはわずか3人で、ボーデンは1911年、ピアソンは1963年に三度目の正直で勝利し、総理の椅子を手に入れた。スタンフィールドは1974年に3度目の敗北を喫し、辞任した。
 シーア党首が言おうとしている、最大野党党首として最初の総選挙に敗れはしたが、二度目には勝利した例は、2人しかいない。スティーブン・ハーパー党首は2004年の最初の総選挙に敗れたが、2006年に勝利した。ローリエ党首は1891年、最初の総選挙でマクドナルド首相に敗れたが、1896年に勝利した。
 最初の総選挙に負けた最大野党党首15人のうち、前任者より多くの議席を獲得したのは5人しかいない。彼らは平均で、12議席減らしている。シーア党首と同じくらい多くの議席を増やしたのは、わずかに2人である。ハーパーは2004年総選挙で、カナダ同盟と進歩保守党の合計を21議席上回り、留任した。ブラッケンは1945年総選挙で28議席増やしたが、辞任した。
 シーア党首が獲得した121議席は、野党としてはカナダの歴史上最大である。議席数は後の時代ほど増加しているが、その議席率35.8%においても、今の保守党は1980年以降で最大となる(議席率最大の野党は、1872年の自由党で47.5%)。
 だがローリエやハーパーの状況と、今のシーア党首は大きく異なる。ローリエが1891年に敗れたとき、自由党は17年間総選挙で負け続けていた。ハーパーが2004年に敗れたときも、自由党が11年間政権を握り続けていた。
 カナダ保守党は新党結成して最初の総選挙で、前回はカナダ同盟66議席と進歩保守党12議席だったのを、99議席にまで増加させた。大票田オンタリオでは前回2議席だったのを、24議席に躍進させたことが高く評価された。
 いっぽうシーア党首は、得票率がケベックで16%で、前回の16.7%より減少した。オンタリオでも33.2%で、前回の35.0%より約2ポイント減少している。この2つの数字は、カナダ保守党結党以来最低の数字である。彼は議席と票を増やしたことを誇っているが、増えたのは西部の議席と死票であり、政権獲得に必要な中部の大票田ではむしろ成績が下がっているのだ。
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