SSブログ

党首選を強いられた元党首たちの前途

 数々のスキャンダルゆえに辞任したパトリック・ブラウン前党首は、権力に返り咲くため党首選に立候補した。これは決して史上初めてのことではないが、カナダ史の前例は彼にとって極めて厳しい。

 まず、連邦政党の例を見る。
 野党転落から4年後、2回連続の総選挙敗北を受けて、進歩保守党のジョン・ディーフェンベーカー党首(元首相)は1967年、党首選開催を強いられた。彼自身も出馬したが、第1回投票でわずか12%の5位に終わり、第3回投票まで進んだものの、5%に沈み脱落した。彼はそれからダフ・ロブランを支持したが、当選したのはロバート・スタンフィールド(ノバスコシア州首相)だった。

 進歩保守党のジョー・クラーク党首(元首相)は1983年、党大会で66.5%の支持を受け、続投可能だったが、彼は33.5%もの反対は見過ごせないと感じ、不必要な党首選をわざわざ開催した。彼は第1回投票で36.5%の1位になったが、留任に必要な50%には遠かった。彼を引きずり降ろそうと画策する右派は、ABC協定(Anybody But Clark/クラーク以外誰でも)を結んでいたため、下位者が脱落するごとに右派の推すブライアン・マルローニの得票は増えていった。そしてクラークは第3回投票まで首位を維持したものの、最終の第4回投票でついにマルローニに敗れ、党首の地位を追われた。マルローニは翌年の総選挙で圧勝し、首相の座に就いた。

 カナダ同盟のストックウェル・デイ党首は2001年、彼のリーダーシップに不満を持つ議員7人が離党して「民主議員の会(DRC)」を結成すると、党首選開催に追い込まれた。彼は第1回投票で37.5%しか獲得できず、55.0%の票を集めたスティーブン・ハーパー(後の首相)に敗れた。

 これら3つのケースは、ブラウンとは重大な相違がある。彼らは、総選挙で敗北した。うちディーフェンベーカーとクラークには首相経験があり、長い間党首を務めている。だがブラウンの党首経験は3年足らずで、一度も総選挙を経験していない。そして3人は、ブラウンとは異なり当人のスキャンダルはなかった。

 次に、地方政党の例を見る。
 当人がスキャンダルを抱えていた例として、ブリティッシュコロンビア自由党のゴードン・ウィルソン党首が挙げられる。当選1回で院内幹事長に抜擢したジュディ・タイアジ議員と、両者とも配偶者がいる中での不倫が発覚し、1993年党首選開催を強いられた。彼は得票率わずか8%の大敗を喫し、ゴードン・キャンベル(後の州首相)に党首の座を譲った。二人は離党し、新党「進歩民主同盟」を結成して翌年結婚したが、1996年総選挙でタイアジ氏は落選。夫のウィルソン氏は当選したものの、翌年閣僚ポストを得るためブリティッシュコロンビア新民主党に移籍し、党は解散した。

 マニトバ進歩保守党のエリック・ウィリス党首は、総選挙に5回連続で敗れた後、1954年に党首選開催を強いられた。彼自身も立候補したが、ダフ・ロビン(後の州首相)に敗れた。

 ニューブランズウィック進歩保守党のチャールズ・バン=ホーン党首は、1967年総選挙に敗北し辞任したが、1969年党首選に立候補した。だがリチャード・ハットフィールド(後の州首相)に敗れた。

 最後に、党首返り咲きに成功した少数の例を見てみよう。
 ニューファンドランド&ラブラドル自由党のジョーイ・スモールウッド首相は、独裁的手法が反感を買い、1969年に引退を発表したが、すぐに翻意し、党首選に出馬して返り咲いた。これは、多くの若手議員がニューファンドランド&ラブラドル進歩保守党に移籍する結果を招いた。
 スモールウッド首相は1971年総選挙で、定数42議席のうち20議席に終わり、進歩保守党の21議席に及ばなかったが、1議席のラブラドル党の協力を取り付け、政権を維持した。だが彼は翌年、党内の内紛のため首相と党首の辞任を余儀なくされた。
 後継党首にはエドワード・ロバーツが就任したが、スモールウッドは党首に返り咲くため、1974年党首選に立候補した。ロバーツは何とかスモールウッドを破ったものの、一度も総選挙を戦うことなく、1977年党首選に敗れた。
 党首返り咲きに失敗したスモールウッドは、自由党を追放され、1975年に「ニューファンドランド改革自由党」を結成した。彼の目論見は、キャスチングボートを握ることによって首相の座に返り咲くことだった。だが結果は、進歩保守党の得票率45.5%に対し、自由党37.1%・改革自由党12.0%と、旧自由党グループの方が上回ったにもかかわらず、票が分散したため、議席は進歩保守党30・自由党16・改革自由党4・無所属1議席(定数51)となり、進歩保守党に過半数を許した。新党結成は誰が見ても失敗だったが、彼は公的には成功だったと-自由党を困らせた挙句、自分を党首にするという条件で合併を申し出るという観点において-主張した。スモールウッドは1977年に政界を引退し、存在意義を失った改革自由党は解散した。

 オンタリオ自由党のロバート・ニクソン党首は、1971年10月の総選挙に敗れ、辞任を表明した。1973年10月に党首選が実施されることになったが、その間に与党はスキャンダルで支持を失い、自由党の支持率は上昇した。ニクソンは翻意し、党首選に出馬して、58%の票を獲得して当選した。だがそれでも、彼は政権奪回することはできなかった。

 マニトバ新民主党のグレッグ・セリンジャー首相は2013年、消費税増税はしないという公約を翻した。新民主党の支持率は急落し、議員たちは辞任を要求し、閣僚が5人辞職する事態に発展した。セリンジャー党首は、2015年に党首選を実施し、自ら立候補して得票率50.9%で勝利した。だが2016年総選挙で、新民主党は過去30年間で最悪の敗北を喫し、党首を辞任した。

 党首選開催に追い込まれながら、自ら出馬して勝利した例は、わずかに存在する。だが党首の地位を維持したところで、議員たちや世論の支持を失ってしまったリーダーたちの前途は、決して明るくはない。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:地域

nice! 0

コメント 0

コメントの受付は締め切りました