SSブログ

2012年衆院選に見るカナダとの共通点 [日本]

 自由党のトルドー首相は、ケベック独立を阻止し、1982年憲法を制定して評価されたが、新憲法には「ケベックの独特の地位」は盛り込まれなかったし、彼は「国家エネルギー計画」で西部の地下資源に課税したことで、西部に恨まれた。自由党はケベックを基盤にしてきたが、ケベックと西部の両方に恨まれ、1984年総選挙で大敗した。
 進歩保守党は王党派が多いため、歴史的にケベックで嫌われており、西部を基盤にしていたが、1984年総選挙でケベック人マルローニを党首に立て、議席の75%を獲得する圧勝を収めた。だが、歴史的に対立してきた西部とケベックの両方のニーズを満たすことは、容易ではなかった。マルローニ首相はしだいに、ケベック優遇を明らかにしてゆく。1982年憲法に署名を拒否したケベック州を憲法体制に取り込むため、彼は憲法に「ケベックの独特の地位」を盛り込む憲法改正案を作成したが、西部を中心に強い反発にあい、頓挫した。するとケベック州の議員は離党して、独立派の新党「ケベック連合」を旗揚げした。西部でも「西部のための保守党」を称する改革党が結成され、ケベックと西部の両方から見捨てられた進歩保守党は、1993年総選挙でわずか2議席の惨敗を喫した。
 1984年に政権を喪失した自由党は、政権を奪回するため「なぜケベックを失ったのか」という問題に向き合おうとした。だが問題はやがて、党首をすげ代えればいいのだという権力闘争へと変貌して行った。保守党が二つに分裂した状態で臨んだ1993年総選挙で、自由党は圧勝し政権返り咲きを果たす。分裂した保守党に対し、自由党は唯一の全国政党で、議席の35%を有するオンタリオ州でそのほとんどを獲得した。オンタリオの進歩保守党支持者は、右翼の改革党を嫌い、自由党に投票したからである。西部は依然として改革党の根拠地だったが、議席が少ないので捨ててかかっていた。自由党政権はいつまでも続くかに見えた。
 2003年、二つの保守党が合同しカナダ保守党が結成されると、改革党を嫌っていたオンタリオの進歩保守党支持者たちは、中道寄りマニフェストを採択したカナダ保守党を支持するようになった。90年代に選挙を楽勝してきた自由党は、議席の35%を持つオンタリオでの圧倒的な支持に胡坐をかき、自分たちがなぜケベックや西部で嫌われ、どうすれば支持を回復できるかという問題に、結局向き合おうとしなかった。カナダ保守党は、進歩保守党の地盤を全て回復したし、西部発祥の新民主党も、90年代に東部への浸透に成功し、2011年総選挙ではケベックで第一党となった。オンタリオは、90年代にはほぼ全部が自由党の議席だったが、北部は新民主党の地盤に変わり、トロント周辺部は保守党の地盤に変わり、自由党はいまや、MTV(モントリオール・トロント・バンクーバー)でしか議席を獲れない典型的な都市型政党になっている。


 今の日本の状況は、マルローニ時代のカナダによく似ている。
 第一に、与党が過大な議席を有している。過大与党は、党内のセクトが相反する利害を主張し、首相の統制が効かなくなりがちである。民主党政権に、100人の小沢グループがいたようなものである。
 第二に、大勝の勢いをかって憲法改正にとりかかり、失敗すると命とりになる場合がある。不要な対立を与党内に巻き起こし、党分裂を招くと大惨事になる。
 第三に、相手の失敗につけこみ、前回なぜ支持を失ったのかという敗因に向き合わないでいると、いずれ有権者に見捨てられる。自党に投票が集まったのは、消極的支持かもしれない。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

nice! 1

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0