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20世紀最大の愚行【ボーモン=アメル】 [旅行記]

 4月30日朝、パリの空港に到着する。パリ市内へ行くのに、前回2006年はオワシーバスに乗ったら、通勤ラッシュにはまって1時間近く遅れたので、今回は郊外鉄道RERで向かう。
 前回はレイルパスをバリデーションしてもらうのに、空港にあるフランス国鉄SNCFの窓口で長い行列に並ぶ羽目になってしまったので、今回は旅行代理店に1000円手数料を払い、バリデーション済みのパスを購入しておいた。ところが、パスのままでは自動改札を通過できないので、通過券「コントラマルク・ド・パサージュ」をもらうのに、結局行列に並ばなければならないという、これではバリデーションしておいたのが無意味である。

 パリ市内に入り、リュクサンブール界隈を巡った後、アルベールに向かう。田舎である。ここからボーモン=アメルに向かうのだが、たまたま待っていたタクシーの運転手が、まるで英語ができなくて“Newfoundland memorial park”がどこかわからないという。ここから往復すれば20ユーロ以上のいい儲けになるのだが、この人は親切にも、英語のできるタクシー運転手を携帯で呼んでくれた。「20分後に来る」というので待つと、ちょうど20分後に来た。この英語の達者な田舎の老紳士は、見通しのいい田舎の道を100キロ近いスピードで飛ばす。15分以上かかりそうな距離を、10分で到着する。
 公園には、カナダとニューファンドランドの旗が翻っている。ここはフランス語で“Parc Commémoratif Terrenuvien ”という。なるほど“Newfoundland memorial park”が通じないわけだ。「20世紀最大の愚行」と言われたソンムの戦いの古戦場の一つで、ニューファンドランドの男子の4分の1が死亡したという、ニューフィーズにとっては忘れられない土地である。
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 ダグラス・ヘイグがイギリス軍司令官に就任した直後、フランス軍との間で作戦会議が行われ、西部戦線で攻勢に出ることが決定された。攻撃は1916年2月、イギリス軍20個師団とフランス軍40個師団で、場所がフランスのソンムに決まったのは、そこが英仏の守備ラインがつながるところで合同攻撃に都合が良いというだけの理由である。攻勢は東部戦線でのロシア・イタリア軍の攻勢に合わせて行われることとなった。
 だがドイツ軍が2月にベルダンで攻勢を開始したため、フランスは全ての戦略予備をそこに投入した。フランスにはもはやソンムで攻勢に出るための40個師団はなかった。だがそれでもヘイグはソンムの攻撃準備に邁進した。
 6月24日になると、フランス首相ブリアンはベルダンの戦況に不安を覚え、ヘイグに早くソンムを攻撃し、ベルダンに向かうドイツ軍を減らすよう要請した。実際にはドイツ軍はブルシロフ攻勢で東部戦線に予備師団を回したため、ベルダンの消耗戦には見切りをつけていたが、ヘイグはこの要請を受け、攻撃に着手した。
 翌日から準備砲撃が6日間、24時間連続で続けられた。173万発もの砲弾を撃ち込んだヘイグは、ドイツ軍は壊滅したものと信じ、7月1日歩兵隊に突撃を命じた。
 敵の塹壕までは数百メートル、走れば1・2分で到着するが、歩兵は自らの食糧を含む30キロの荷物を担いでおり、すばやく動くことはできない。アレクサンダー大王の時代なら、歩兵は密集隊形をとっているが、それでは機関銃の絶好の的になるので、散開して攻勢面を広げ、歩兵の密度を下げて突撃する。
P1010170.JPG 兵士全員で作ったイギリス軍の塹壕と異なり、ドイツ軍の塹壕は専門の工兵によって作られ、予想以上に頑丈だった。イギリス軍の突撃を知るや、ドイツ軍兵士は塹壕から姿を現し、機関銃を連射した。イギリス軍兵士たちはほとんど鉄条網の前でなぎ倒された。そして第2波、第3波とまた倒された。
 第一次大戦はニューファンドランド軍にとって、歴史上最初の(そして最後の)晴れ舞台であった。ニューファンドランドは当時カナダ連邦に加入しておらず、大英帝国の自治領であり、人口25万人のうち5482人が出征した。彼らの担当はボーモン=アメルで、エセックス第1連隊の第1波に続き第2波の攻撃を担当した。だが突撃した753人の兵士は、次々と機関銃の餌食となり、ニューファンドランド連隊はわずか30分で壊滅した。死者300人以上、負傷者350人以上、翌朝点呼に応えたのはわずか68人しかいなかった。
 第4軍司令官ローリンソンは異常を察知し、午前中に攻撃中止をヘイグに具申した。だが司令部のヘイグは15キロ以上後方にあり、前線で何が起きたか全く把握できず、戦闘に犠牲は付きものだとして攻撃を続行した。そのため一方的な殺戮が一日中続いた。その日ヘイグは本国に報告している。
 「今朝の攻撃は大成功である。すべては計画どおり時計の正確さで進められた。ドイツ兵はいたるところで上官の指示に従わず降伏している。敵は兵員が欠乏し他の戦線から部隊をかきあつめている。わが軍の士気は高く、確信に満ちている。」
P1010166.JPG 実際はこの日、イギリス軍だけで死者1万9240人、負傷者5万7470人、行方不明者2152人を出し、あらゆる戦争の歴史における1日の攻撃側損害の世界記録を樹立した。ソンムの戦いはその後5か月続き、イギリス軍42万・フランス軍19万5千、ドイツ軍は42万という空前絶後の戦死者を出し、連合国軍は歩兵の90%を失った。広島の原爆ですら14万人しか死亡していない。日露戦争の旅順攻防戦では、日本軍は7か月で死傷者6万人を出したが、要塞を陥落させ旅順艦隊を全滅させているのに対し、ソンムの連合国軍はわずか11キロ前進しただけであった。旅順攻防戦では初めてマキシム機関銃が使用され、機関銃の前に歩兵の正面突撃は無意味であることがすでに実証されていた。長篠の戦いで武田勝頼が、野戦築城し1000丁の鉄砲を用意した敵に無謀な突撃をかけたのは340年前のことである。ソンムの戦いではご丁寧にも、歴史上最後となる騎兵突撃まで行われている。終盤には初めてタンクが投入された。
P1010169.JPG ニューファンドランドは小さな島から死者1500人・負傷者2300人を出し、若者の4分の1を失ったことは島の経済に重大な影響を与えた。ニューファンドランド自治領は、第一次大戦の戦費とその後の大恐慌で苦境に陥り、1934年責任政府を返上しイギリスの直轄植民地に復した。1949年にはカナダ連邦に併合されるが、カナダ人の多くが建国記念を祝う7月1日は、ニューフィーズにとっては戦没者を追悼する日となっている。
 ジョージ5世はニューファンドランド連隊の健闘を讃え、連隊に「ロイヤル」の肩書きをつける勅許を与えた。現在もカナダ軍の中に「ロイヤル・ニューファンドランド連隊」はそのままの名称で存在している。戦場は彼らを記念して1925年、ニューファンドランド記念公園となり、ニューファンドランド政府の所有となった。現在はカナダ政府の所有で、公園内は今も不発弾が残っている。


写真上:イギリス軍の塹壕。
写真中:ニューファンドランド記念公園にあるトナカイのエンブレム。基部には第一次大戦で戦死したニューファンドランド兵の名が刻まれている。
写真下:砲弾の破片のため枝が全て落ちた木が、この地に一本だけ残った。周辺には不発弾が多く「危険・立ち入り禁止」の看板が掲げられたことから「危険木」と名付けられた。
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