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カナダ独立の原点【ビミー】 [旅行記]

P1010103.JPG 無人駅、というよりホームしかないローカル駅ビミーで下車し、2キロほど歩くとカナダ人の聖地ビミー・リッジに着く。

 (1) カナダ軍の新戦術
 ビミー・リッジの丘は高さ110メートル、長さ8~10キロメートルに過ぎない。だがこの丘はフランス北部におけるドイツ軍の重要な拠点であった。周囲にはほかに高地はなく、四方全ての見通しがきき、しかも連合国側からは峰の向こうは遮断されて見えず、兵力を正確に把握することができない。丘の東側は急な崖になっており、敵の侵入を拒んでいる。ドイツ軍はここに無数の塹壕を掘り、三重の有刺鉄線を張り巡らせ要塞化していた。
 フランスは1915年にビミー・リッジを攻撃し、一時は丘を占領したが、増援が時間通りに到着しなかったため守り抜くことができなかった。フランス軍はモロッコ師団の半分と外人部隊の3分の2にあたる15万人を失った。
 イギリス軍は1917年4月にアラスを攻撃することを決定し、ビミー・リッジ攻略の任務をカナダ軍に与えた。そしてカナダが派遣した4個師団を別々にイギリス軍に組み込むのではなく、合同してカナダ軍を形成するのが士気を高めるうえで好ましいという観点から、4個師団が合同し史上初めてカナダ軍が結成された。これはカナダ4個師団とイギリス1個師団から成り、総勢17万人のうち9万7000人がカナダ人であった。しかしフランス軍参謀総長のロベール・ニベルはカナダ軍の攻撃を無謀と断じ、失敗に終わるだろうと予測した。
 カナダ軍司令官にはイギリスのジュリアン・ビング中将、副官にはカナダのアーサー・カリー少将が着任した。この2人のコンビは第2次イープルの戦い以来である。ビング中将はかつて着古した軍服を着ているのを国王に注意されたほどで、その気取らない性格はカナダ兵たちに愛された。
 「私が求めるものは統制である。そして決して目的を見失ってはならない。」
 ビングは兵士全員に地図を配り、作戦について説明した。従来は一部の士官だけがそれを握っていたため、士官が戦死すると部隊は混乱に陥り攻撃続行不可能になっていたのである。
 カリーは1915年のイープルの戦いで、カナダ部隊を率いてキチナーの森に突撃した隊長である。また1916年のベルダンの戦いでは、カナダのオブザーバーとしてフランス軍が直面した問題を間近に見た。カリーは高級将校たちとは異なり、過去の失敗から学ぼうとした。
 カリーは、機関銃と有刺鉄線に向かって歩兵隊の波を送る自殺的“over-the-top”戦術に疑問を抱いた。ここ3年間、ドイツ兵は塹壕内で砲撃をじっと耐え、砲撃が止んだらそれが突撃の合図なので塹壕を出て機関銃ポストに就き、敵歩兵を一人ずつ倒していけはよかったのである。そこでカリーが開発した新戦術は「忍び寄る砲撃」というものだった。これは、敵地に向かう歩兵を援護すべく、後方から正確に歩兵隊の前を集中砲撃するというものである。友軍を砲撃しないよう3分ごとに正確に、歩兵隊は90メートル進み砲兵隊は90メートル先を砲撃することになる。集中砲撃は煙と埃を出し、味方の歩兵隊を隠す役割も果たす。だがもし前進が遅れば、彼らは丘の上のドイツ軍の射撃の標的にされるし、速ければ自軍の砲撃を受けることにもなる。ビングはビミー・リッジの実物大模型を作り、兵士に入念に予行演習を行わせた。
 「諸君は電車のように正確に進まなければならない。さもなくば全滅する。」
 またカナダ軍は百人規模の中隊による突撃を廃し、数十人からなる小隊を作り、小隊内に機関銃・ライフル・手榴弾専門の兵士を置くシステムに替えた。前線での機関銃銃撃は、後方からの集中砲撃を補足し、歩兵の前進をより安全なものにした。
 ビングはさらに、科学にくわしいマギル大学教授のアンドリュー・マクノートン中佐を顧問につけた。彼は前線に原始的なオシロスコープとマイクロフォンを設置し、敵の銃の音を拾うことで敵兵の位置を調べた。またフラッシュ観測装置を置くことで、大砲の位置も割り出した。これらは全て地図に記され、全員に配られた。彼はまた、接触すると直ちに点火するヒューズを備えた新型の砲弾を開発した。これでソンムの戦いでは不可能だった、有刺鉄線に穴をあけることが可能になった。
 ビングはまた、歩兵隊を敵の砲撃にさらすことなく送るため、突撃点まで地下道を掘った。合計11本もの地下道が掘られ、内部には司令部、野戦病院、3500人収容の地下室まで作られ、地下鉄・水道管・電話線が通り、電灯も設置された。
 4月2日から準備砲撃が始まり、100万発以上の砲弾が発射された。ドイツ軍の大砲は丘の向こう側に隠されていたが、フラッシュ観測装置と気球によって位置を見破られ、その83%が破壊された。

biggest_map.jpg

 (2) イースター・マンデーの総攻撃
 カナダ軍第1師団の任務は、アラスとランスを結ぶ道より西側を攻撃し、テリュ南部にある塹壕を奪取し、ファルビュを獲るべく東へ向かうこと。
 第2師団は第1師団の北に配備され、テリュを攻撃しその塹壕を奪取すること。
 第3師団は、1.2キロ先のラ・フォリーの森を攻撃し、ビミー・リッジの東斜面に向かうこと。南側とは異なり、東側は塹壕と大砲の穴で満ちている。
 第4師団は、ブラドマルシュからジバンシーまでを攻撃すること。その最終目的は、最高点145高地と東斜面である。ここはビミー・リッジで最も堅く守られた部分であり、その北側は「ピンプル」(吹き出物)と呼ばれ、四方に砲撃可能な開けた地点である。
 最終目的の145高地の占領は、第3師団のラ・フォリー占領にかかっており、それは第2の師団のテリュ占領にかかっており、それは第1師団の働きにかかっていた。
 1917年4月9日イースター・マンデーの朝、1万5000人のカナダ軍兵士が地下道から出て来たとき、天候は吹雪に変わった。戦いの序盤で4人の兵士が、ビクトリア十字勲章に輝く目覚しい活躍をした。
 第1師団第16大隊のウィリアム・ミルン上等兵は穴から飛び出し、泥の中を匍匐前進して手榴弾を投擲し、敵の機関銃の破壊に成功した。彼は終日勇敢に戦ったが、自らの胸にビクトリア十字勲章が輝く日を見ることなく、この日戦死した。
 第2師団はすみやかに前進し有刺鉄線を越えたが、隠された敵の機関銃に行く手を阻まれた。そのとき第18大隊のエリス・シフトン軍曹が勇敢に突進して、銃を破壊し射手を銃剣で突いて、反撃を封じた。彼もまたその直後に殺され、ビクトリア十字勲章を見ることなく戦場に散った。
 彼らの勇敢な働きに助けられ、第3師団も前進した。
 第4師団も集中砲撃に援護され、前進して145高地とピンプルを結ぶ尾根を望む地点に楔となる遮蔽物を立てた。その地点はすぐに高所からの猛烈な射撃に晒されたが、それは次第に衰えていった。第38大隊のセイン・マクダウェル少佐が機関銃を2個爆破したのである。彼はなおも逃亡するドイツ兵を退避壕まで追い、自分の後ろに大軍がいるとうまく騙して将校2人と兵士77人をまんまと捕虜にした。
 開戦後わずか2時間で第1・2・3師団は目的を達し、ビミー・リッジの大部分はカナダ軍の手に落ちた。だが第4師団のみがピンプルからの猛攻を受け、最重要目的の145高地を占領できずにいた。第87大隊は6分で60%もの死者を出し撃退された。日没までに、第85大隊はなんとか西の頂上を確保することができたものの、丘の東斜面はドイツ軍の手中に残った。
 翌朝第50大隊のジョン・パティソン上等兵が、一人機関銃から30メートルの地点まで進み、抜群の精度で敵の機関銃に手榴弾を3発投擲して命中させた。彼はそれから機関銃ポストに進み、射手5人を銃剣で殺し、145高地における手詰まりを打開した(彼は2か月後にランスで戦死したため、彼もまたビクトリア十字勲章を見ることはなかった)。そして激戦が続く中、援軍として送られた本来は補給のためのノバスコシア第85大隊が、ついに145高地の占領に成功する。ドイツ軍はいっせいにピンプルまで後退した。ピンプルに挑んだウィニペグ第78大隊は四方から銃撃を受け、65%もの兵士が死傷した。これ以上の攻撃は無理とみたカナダ軍は、その日の攻撃を中止した。
 そして4月12日、エドワード・ヒリアン准将が第10旅団を導いて、1時間でドイツ軍をピンプルから蹴散らし、ついに丘を完全に手中に収めることに成功した。彼は後に報告書に「ピンプル卿」と署名した。初めて結成されたカナダ軍の、記念すべき勝利であった。パリの新聞は「カナダからのイースター・プレゼント」と報じ、イギリスのロイド=ジョージ首相も「カナダ人は見事な役割を演じた」と賞賛した。カナダ軍は死者3598人、負傷者7004人と大きな犠牲を払ったが、ドイツ軍兵士4000人を捕虜にした。ドイツ軍の死傷者は2万人であった。

P1010102.JPG (3) カナダ独立の原点
 不運にもその日イギリス・フランス両軍の攻撃は失敗に終わり、カナダ軍の記念すべき勝利は、歴史上大きな地位を占めなかった。ジョン・キーガンの有名な著書でも、ビミー・リッジの戦いは全く触れられていない。だがビミー・リッジでの勝利は、西部戦線における手詰まりを打開した重要な転機となった。またその後ドイツ軍がパリ郊外まで侵攻したとき、ビミー・リッジが依然として連合国軍の手中にあったことは、その反撃の拠点として極めて重要な意味を持った。そしてイギリス軍の一部隊としてではなく、カナダ師団が初めて「カナダ軍」として戦い、しかもイギリス軍が敗北したその日に勝利を収めたことは、カナダ人のナショナリズムを刺激した。
Memorial_Vimy_face.jpg 俗に「カナダは独立の種をビミー・リッジで蒔き、兵士たちの血を養分として育てた」「彼らは植民地人として国を出て、カナダ人として帰還した」と言われる。「西部戦線で最も優秀な軍隊」と称えられたカナダは、その功績を認められ、独立国でないにもかかわらずパリ講和会議に代表を送り、国際連盟に加盟して1議席を得る。ビミー・リッジを境に、カナダ独立の気運は高まっていくことになるのである。
 今日ビミー・リッジの最高点には、カナダの建築家で彫刻家のウォルター・オルワードによって設計された「ビミー・メモリアル」が建てられている。フランス政府は1922年、ビミー・リッジをカナダに譲渡した。


写真上:ビミーの町から見たビミー・リッジ。
写真下:ビミー・メモリアル。
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