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マクドノー元党首死去 [新民主党]

 カナダ新民主党・ノバスコシア新民主党の元党首アレクサ・マクドノー氏が、1月15日に死去した。享年77歳。
 1944年オタワで、新民主党の前身であるCCF(Co-operative Commonwealth Federation)の活動家の娘として生まれた。クイーンズ大学に入るが、ダルハウジー大学に転学し、社会学と心理学を学んだ。1966年、ピーター・マクドノー氏と結婚。
 二十代で自由党に入るが、ノバスコシアのジェラルド・リーガン政権に失望し、新民主党に移籍する。1979年の連邦議会選挙でハリファックスから出馬するが、落選。80年にも同じ選挙区から出馬するが、かつて自分が選挙運動を手伝ったジェラルド・リーガンに敗れる。

 その直後、ノバスコシア新民主党のジェレミー・エイカーマン党首が辞任した。同党は当時州議は4人だけで、全員がケープブレトン島出身だったが、本土の選挙区には州議がいないにもかかわらず代議員はいて、ケープブレトン島派と本土派の対立が深刻化した。エイカーマン党首が辞任すると、ポール・マキューワン州議がこれを批判し党を除名されるが、幹部会は彼を幹部会に留めると決定し、収拾がつかなくなった。このような混乱の中で、党首選が行われた。
 レン・アースノー候補とバディ・マッキーカーン候補はいずれも州議で、議席のないマクドノーはダークホースと見られていたが、第一回投票で237票を獲得し、42票のアースノー候補と41票のマッキーカーン候補に圧勝した。マクドノーのアウトサイダーイメージが、両派の対立から一歩距離を置いていると見られ、また彼女の穏やかな性格が挙党体制に適していると期待されたのだった。彼女は議席を持つ政党としては、カナダ初の女性党首となった。
 81年の州議会総選挙では、ケープブレトン島の議席を全部失い、州議は彼女一人となる苦杯を味わった。だがケープブレトン島派と本土派の党内抗争を、終わらせることはできた。
 当時ノバスコシア州議会には、女性議員は彼女だけで、議員のための女子トイレはなかった。男性議員たちは、議場から歩いてすぐの議員用トイレを使えたが、彼女は1階に降りて公衆女子トイレを使わなければならなかった。彼女は、男社会である州議会を「オールドボーイズ・クラブ」と呼んで批判し、改善を訴えた。
 マクドノー党首個人の人気は高かったが、党の支持率向上にはあまり寄与しなかった。彼女が党首を務めていた間、党は3議席を超えることはできなかった。1994年、彼女は党首を辞任した。

 カナダ新民主党は、1993年連邦議会総選挙でわずか9議席の、結党以来最低の敗北を喫した。公式政党である12議席にも満たず、代表質問もできなければ院内に事務所も設置できず、調査費用は助成されず自己負担となった。オンタリオとブリティッシュコロンビアで成立した新民主党政権の不評が原因で、オンタリオでは全議席を、ブリティッシュコロンビアでは2つを除く全議席を失った。マクラフリン党首は辞任を表明し、1995年に党首選が行われたが、ここにマクドノーが立候補を表明する。彼女は連邦議会に議席を持っていなかったが、ライバルのスベンド・ロビンソン候補とローン・ニストロム候補は議員だった。党勢は振るわないうえ、党内は分裂しており、状況はノバスコシア新民主党党首選と似ていた。
 予備選では、ニストロム候補44.7%、ロビンソン候補32.1%、マクドノー候補18.5%、ハーシェル・ハーディン候補4.8%となり、アウトサイダーのマクドノーはやはりダークホースと見られていた。上位3名が本選に進んだが、第一回投票ではロビンソン候補37.8%、マクドノー候補32.6%、ニストロム候補31.5%となり、マクドノーの思わぬ健闘で、予想外の三つ巴となった。ニストロム候補が脱落し、決戦投票が行われることになったが、ここでロビンソンが意外な行動に出た。彼は党内左派で、マクドノーとニストロムは中道だから、ニストロムの票のほとんどはマクドノーに入ると読んだ彼は、マクドノー支持を表明し決戦投票を辞退した。戦って敗れるより、勝ちを譲って恩を売った方が得策だと考えたのである。この行動は、彼の一匹狼イメージを覆し、挙党体制に協力的だというイメージを与えることには成功したが、彼の勝利を信じて運動してきた味方陣営の怒りを買った。こうしてマクドノーは、1976年のロバート・スタンフィールド党首(進歩保守党)以来となる、人口の少ない東部出身の連邦政党党首となった。
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 主要政党では、議席のない人が党首になると、若手議員を辞職させ補選で議席を得るのが通例だが、彼女はそうせず、連邦議会の傍聴席に座った。1997年連邦議会総選挙で、彼女はついに議席を得るが、新民主党も21議席に躍進し、公式政党の地位を回復した。特筆すべきは、中西部発祥の同党はオンタリオ以西を根拠地としており、ケベック以東では議席獲得が困難で、それまでの歴史を通し東部では3議席しか取れなかったのを、東部だけで8議席を獲得したことだった。

 好調なスタートを切ったマクドノーはその後、イギリスのブレア首相の成功にあやかり、「第三の道」を模索すべく党の軌道を中道に向かわせようとした。だが労働組合の抵抗に遭い、カナダ自動車労連のハーグローブ委員長は、辞任しなければ支持を取り下げると公然と脅しをかけた。このとき2名の議員が党を見限り、他党に移籍した。
 2000年連邦議会総選挙では、新党カナダ同盟に注目が集まった。新民主党の支持者はこのときも、カナダ同盟の政権獲得を妨げようと戦略的に自由党に投票したため、13議席にとどまった。
 2001年ウィニペグで開催された党大会で、新民主党は左翼路線を再確認した。マクドノー党首は行きづまり、2002年「家庭の事情」を理由に党首を辞任した。2008年には、総選挙に出馬せず政界引退すると表明した。

 ノバスコシア新民主党は2009年、州議会選挙で勝利し東部で初の新民主党政権を築いた。東部で鳴かず飛ばずだった同党が、東部に浸透できたのはマクドノーの功績と言える。
 彼女は二人の子を産んだが、夫と1993年に離婚している。進歩保守党の元議員で元大臣のデビッド・マクドナルド氏と内縁関係となり、彼は97年連邦議会総選挙に新民主党から出馬して落選している。二人は2004年に破局した。
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