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パイェット総督辞任 [総督]

 ジュリー・パイェット総督は1月21日、辞任した。
 彼女は2020年7月、総督府スタッフに度の過ぎたパワーハラスメントを行ったと報じられ、独立した調査機関が調査していた。ドミニク・ルブラン枢密院議長は先週末、最終報告書を受け取ったが、その内容は「不穏当かつ深刻」なものだったという。
 これを受けてパイェット総督は21日夜トルドー首相と会談し、辞表を提出した。彼女の腹心で、パワハラに加わったとされるアサンタ・ディ・ロレンゾ総督官房長官も同日、辞任した。
 総督は、メディアを通じ声明を発表した。
「(筆者注※刑事または民事上の)公式な訴えはなされていないが、私はこれらの申立てを深刻に受け取っている。」
「我々はみな物事を異なって体験するが、我々はうまくやるよう、また別の誰かの認識に注意深くあるよう努めねばならない。」
 そして彼女は、父親の健康がすぐれず、自分の介護が必要なため、辞任はちょうどよかったとつけ加えた。
 これを受けてトルドー首相も、声明を発表した。
「カナダ政府のあらゆる従業員には、安全かつ健全な環境で働く権利がある。そして我々は、この問題に極めて真摯に取り組んでいく。」
 バッキンガム宮殿は「女王は情勢を認識している」という短い声明を発表した。

 総督が欠けたときは、連邦最高裁判所長官が代理に就くと規定されており、リチャード・ウェイゲナー最高裁長官が総督代理に就任する。
 任期途中で総督公邸を出て、代理に代わった総督は過去にもいるが、大半は健康上の理由であり、不名誉な理由ではパイェット総督は最初の人となる。
 1931年ビア・ポンソンビー総督(ベスバラ伯)がカナダを出国したとき、後任が就任するまでの残りの任期を、最高裁長官が代理に就けなかったため、ライマン・ダフ陪席判事が総督代理を務めた。カナダ生まれで初めてカナダ総督になったのは1952年のビンセント・マッシーだが、ダフはそれより早く総督代理となり、1931年3月12日に連邦議会を召集し、スローン・スピーチを朗読した最初のカナダ人となった。
 ジョン・バカン総督(ツイーズミュア卿)が1940年に死去したときも、ダフは最高裁長官として総督代理を務めている。
 国王ジョージ五世は1952年2月1日、後任のカナダ総督にビンセント・マッシーを指名したが、6日に崩御した。軍人だった総督ハロルド・アレキサンダー卿は、チャーチル首相に国防大臣に就くよう要請されていたため、任期を1か月残してイギリスに戻り、ティボドー・ランフレ最高裁長官が総督代理を務めた。
 ジョルジュ・バニエ総督が1967年に死去したときは、ロベール・タシュロー最高裁長官が総督代理を務めた。
 ロメオ・ルブラン総督(ドミニク・ルブランの父)は1999年、病気のため任期満了前に辞職した。エイドリアン・クラークソンがすぐ後任に就いたため、代理は立てられなかった。
 エイドリアン・クラークソン総督は2005年、心臓手術のため入院し、ビバリー・マクラクリン最高裁長官が総督代理に就いた。後任のミカエル・ジャン総督が就任する9月27日、マクラクリン総督代理は不在のため、ジョン・メージャー陪席判事が代理の代理を1日務めた。

 与党が過半数の場合は、総督の地位は問題にならないが、現在自由党政権は過半数割れで、いつ内閣不信任されてもおかしくない。首相による解散・総選挙の要請を、許可するかどうかは総督の裁量であり、首相は意のままにできる人物を後任に据えたいはずだ。だが連邦議会の新しいセッションは、来週召集される。それまでに後任を据えるのは、無理だろう。
 ハーパー前首相は総督を決める諮問委員会を設立したが、トルドー首相は委員会を設置しなかった。保守党のオトゥール党首は、後任総督の指名に注文をつけた。
「首相による最後の指名と、少数政権の問題を考慮すると、後任指名について首相は野党に相談し、また指名委員会を再興すべきである。」
 ケベック民族主義・反英・反王室のケベック連合は、「民主主義国家に総督は必要ない」という声明を発表するとともに、調査委員会による報告書の全文を公開するよう要求した。だがルブラン議長は、個人情報保護法の観点から全文の公開はできないため、プライバシーを削除した適切なバージョンを作り後日公表すると回答した。
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