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ベルニエ元外相、人民党を旗揚げ [保守党]

 マクシム・ベルニエ元外務大臣は9月14日に記者会見を行い、新党「カナダ人民党(英語:People's Party of Canada/仏語:Parti populaire du Canada)」の旗揚げを発表した。
「あまりにも長い間、カナダの政治は、普通の市民から乖離したオタワの政治家や官僚、利益団体、カルテル、ロビー団体、国際機関、労働組合に乗っ取られてきた。」
「今こそ政府が、カナダの人民を第一とする時である。」
 彼は新党の政策として、小さな政府、自由市場主義を支持し規制に反対、健康保険への政府助成の廃止、酪農供給管理制度の廃止、憲法の護持などを掲げた。なお党首選は実施しないという。
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 レポータからの質問は、彼の移民政策に集中した。彼は保守党党首選で、新移民に「カナダの価値」調査を実施すべきだと主張したケリー・リーチ候補を批判したが、その後自由党の移民政策を「極端な多文化主義」と批判した。かつての発言とその後の発言をどう一致させるのかと問われた彼は、「新党は一歩進んで独自の政策を採る」と答えてお茶を濁した。具体的には「同性愛者は処刑されるべきだと考えるような人を移民として受け入れてはならない」「カナダに来る移民の総数を減らしたい」と述べた。
 新民主党のシン党首は、ベルニエ党首を「反移民党を創ろうとしている」と非難したが、彼は排外主義者の居場所は新党にはないと明言した。
「移民に反対する極端な人々、彼らはこの党で歓迎されない。それは明白だ。私には、この党から出馬する候補を選ぶ特権がある。そして我々は、我が党の価値を共有する人々を選ぶ。」
 先週グローブ&メイル紙に、反移民の極右団体リーダーと会談したと報じられたことについて、ベルニエ党首は事実と認めたが、彼らの組織の見解を知らなかったと語った。また党首選敗退時に、リバタリアン党とナショナリスト党から党首就任を要請されたが、断っている。
 保守党のガーマント・グリューワル元議員や「マリファナ王子」マーク・エメリー氏らは新党支援を公表しているが、ベルニエ党首のほかに同席者はなく、彼は一人で記者会見を行った。保守党議員を勧誘したかと問われると、彼は議員ではなく支持者を引きつけたいと語った。
「私は、元同僚の支援を期待していない。私は、彼らの立場を尊重する。私は、彼らに呼びかけなかった。私は、彼らに支援を求めなかった。実は私には、その時間がない。私は、助けを求める人々と話すのがとても忙しい。」

●再建党の悪夢
 ベルニエ党首は、彼の試みを「カナダ史上独特のもの」と評した。だが批評家の間では、83年前の再建党の悪夢を思い起こす人がいる。
Henry_Herbert_Stevens.jpg 世界恐慌の中、ヘンリー・ハーバート・スティーブンス貿易通商大臣は、価格特別委員会の委員長に就任した。人々はそれを「スティーブンス委員会」と呼んだ。彼は大企業による価格操作と市場操作を強く非難し、ベネット首相が考えるよりはるかに急進的な政府介入を主張した。だが首相には、財界を敵に回す政策など採れるはずもなく、スティーブンスを保守党幹部会から追放する。スティーブンスは、保守系新党「再建党(Reconstruction Party)」を結成した。
 再建党は「公共事業を行い、労働争議を仲裁し、高所得者へ増税し、天然資源開発により財政赤字を克服し、農産物を管理する委員会を設立する」と主張し、「ニューディールのカナダバージョン」と呼ばれた。それらのポピュリズム的政策は、あたかもベルニエの正反対でありパロディを見るかのようだ。ベルニエが保守党の右に行ったのに対し、スティーブンスは保守党の左に行ったのである。ベネット首相は再建党を「解体党(Deconstruction Party)、これまで政権を獲ったことのない、無謀な個人的野心から考え出された新奇な運動」と揶揄したが、実際のところ、保守票分散が自由党を利することに真剣に困惑していた。彼は手紙にこう綴っている。
「総理大臣は、どんな種類の同僚にも適応できる。だが寛容さには、限度がある。無知は許されるが、裏切りは許されない罪である。」

 1935年の総選挙は、保守党にとって惨事となった。野党自由党は得票率44.7%で、前回の45.5%と大差なかったにもかかわらず、議席を89から171に増やし、安定多数を獲得した。与党保守党は得票率29.8%ながら39議席にとどまり、前回より95議席も減らした。再建党は得票率が8.7%もあったにもかかわらず、当選者はスティーブンス党首1人にとどまった。グローブ紙は「これは選挙ではない。虐殺だ」と報じた。
 次の党首になるロバート・マニオンも落選し、「反逆は40議席を損なった」と憤慨した。自由党候補が当選したうち48選挙区で、自由党候補と保守党候補の得票差は、再建党候補の票数より少なかった。もしも保守党分裂がなければ、両党の得票率合計は38.5%に及び、自由党を過半数割れに追い込め、保守党は強力な野党たりえただろう。
 スティーブンスはその後、党首選を実施し、彼自身を当選させ、党綱領を制定した。レスブリッジ・ヘラルド紙は、こう評した。
「スティーブンス氏は彼の党を創り、その綱領を制定して、その党首を選出し、彼自身を当選させることに成功した。そして、ほかには誰もいない。」
 彼は1938年保守党に復党し、再建党は解体された。再建党は、彼を追放した保守党に復讐するという観点では大きな役割を演じたが、再建党それ自体は何の存在意義もなかった。


写真上:記者会見を行うマクシム・ベルニエ党首。
写真下:ヘンリー・ハーバート・スティーブンス。
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