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太陽と月に背いて【ブリュッセル】 [旅行記]

 ポール・ヴェルレーヌは、フランスのメスに生まれた。パリの寄宿学校で学ぶが、このころすでに年下の男子中学生に恋愛感情を抱いている。
rimbaud.jpg 彼が1868年に発表した詩集「女の友達」は、レズビアンの愛を歌ったもので、風紀紊乱のかどで裁判所に破棄される。
 詩人として名を馳せるようになると1870年、マチルドと結婚するが、翌年アルチュール・ランボーから手紙が届く。同封されていた詩を読んだヴェルレーヌは、その才能に驚愕した。すぐに返事を書き、旅費を与えてパリに呼び寄せた。ランボーはまだ16歳の、背の高い美少年だった。ヴェルレーヌは妻に乱暴を繰り返したあげく、家庭を捨ててランボーとの同棲生活に入る。やがて妻は夫に愛想をつかし、ヴェルレーヌの友人たちはランボーの粗暴な振舞に嫌気がさして離れていった。
 
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 1873年7月10日、二人はブリュッセルのホテル「ロテル・ア・ラ・ビル・ド・クルトレ」にいた。現在は刺繍屋である。ヴェルレーヌはマチルダとよりを戻そうと考え、さもなくば自殺すると騒いだ。ヴェルレーヌの母親が心配になり、ホテルにやって来た。しかしマチルダの心は動かず、そればかりかランボーはヴェルレーヌと別れ、単身パリへ行くと言い出した。ヴェルレーヌは逆上して、ランボーに向けて拳銃を二発を発射、うち一発がランボーの左手首に命中する。ヴェルレーヌはモンスの刑務所に収監された。
 ヴェルレーヌは獄中で詩集「言葉なき恋歌」を出版した。それはランボーとの同棲生活から生まれた詩を収録したものである。獄中で妻から離縁状を突きつけられた彼は1875年、出獄するとランボーのもとを訪れるが、ランボーももちろんよりを戻す意思はなく、二人で格闘した。
paul_verlaine.jpg ヴェルレーヌはその後アルデンヌ県の中学校に勤めるが、教え子のリュシアン・レティノアを寵愛し、授業をおろされ、リュシアンとイギリスへ渡り、同棲生活に入る。だがリュシアンは1883年、腸チフスで死亡した。
 1885年、泥酔して母の頸を絞め、再び投獄される。出獄後は無一文となり、ホテル住まいになるが、母が死亡するとホテルを追い出される。その後は娼婦ユージェニー・クランツの情夫となるが、彼女がほかの男と駆け落ちすると、慈善病院を転々とする生活となる。最期は、娼婦に看取られて世を去った。

 ヴェルレーヌと別れたランボーは、その後詩作を捨て、中東を放浪しコーヒー商人や武器商人になるが、骨肉腫を患い、フランスに帰国する。右足を切断する手術を受けるが、癌が全身に転移し37歳の若さで世を去った。


写真上:アルチュール・ランボー。
写真中:ロテル・ア・ラ・ビル・クルトレ跡。
写真下:ポール・ヴェルレーヌ。
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