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自由党=新民主党連立政権樹立へ [2008年政治危機]

 自由党と新民主党は11月27日、ジャン・クレチエン元首相とエド・ブロードベント元党首を仲介者として、保守党政権を打倒し連立政権を樹立する交渉を始めた。カナダには連立の習慣はなく、連立政権が成立すれば、保守党のロバート・ボーデンが1917年に自由党を引き込んで成立させた「連合」内閣以来2度目。また新民主党が与党となれば、北米の歴史上初めての革新与党となる。そしてカナダ史上最短の少数政権は、ジョン・ディーフェンベーカー内閣(第一次)の177日(1957年8月~1958年2月)だが、ハーパー内閣が不信任されればこの記録を大幅に上回ることになる。なお現在の下院勢力は保守党143、自由党77、ケベック連合49、新民主党37、無所属2(定数308)。

 金融危機の影響で景気後退が確実視されているにもかかわらず、ジム・フラハティ財務相は27日、経済対策法案を提出するかわりに、2700万ドルの政党助成金廃止と、連邦公務員に3年間ストライキ権を与えないという支出削減案を提示した。野党はこれに強く反発し、28日に内閣不信任案提出を予定した。野党3党は過半数に達しており、不信任案が上程されれば可決される見通しである。
 少数政権は1年持たないのが通例だが、ハーパー首相が2年半も政権を運営できたのは、その手練手管で野党3党を「分割して統治する」を実行してきたからである。だが政党助成金削減は野党を窮地に陥らせ、団結させる機会を与えることになった。ハーパー首相は2006年、野党3党共同で内閣不信任案を可決させ政権を奪取したにもかかわらず、今回野党の対応を甘く見た。自由党はディオン党首が退陣を表明しているため、政権に就くことができないと高をくくっていたのが首相の誤算だった。
 首相は特権を行使して12月1日に予定されていた野党の日程をキャンセルし、内閣不信任案提出を12月8日に延期させた。首相は1週間の猶予を得て、今後巻き返しに出ることが予想される。

●政権の行方
 内閣不信任案可決の場合、ハーパー首相には総辞職か解散・総選挙の二つの選択肢がある。だが1か月前に解散・総選挙を実施したばかりで、総督が解散の勅許を与えるとは思えない。解散を回避し現在の下院勢力のまま、協力して政権を運営できる別の党首に組閣を命じる可能性が強い。この場合国民の信託を得ていないので、議会での信を得るため内閣信任投票が行われるだろう。
 しかし自由党=新民主党の連立政権は、143議席の保守党に対し114議席しかなく、ケベック連合の協力が不可欠となる。新民主党はいくつかの閣僚ポストを得て政権に入ることになるが、ケベック連合は入閣はせず閣外協力にとどまり、ケベックの林業と製造業が経済援助を受けられる限りにおいて連立政権を支えることになる。
 このような弱い基盤は、1926年の憲法危機を再現させることになりかねない。進歩党の閣外協力を失い少数政権に転落したマッケンジー・キング首相は、ビング総督に解散・総選挙を要請したが、前回総選挙からわずか1年での再選挙は勅許が得られず、総辞職した。ところが代わって政権に就いたアーサー・ミーエン首相は、組閣のわずか3日後に内閣信任案を否決され、解散・総選挙に打って出て敗北し、キングが政権に復帰したというあの事件である。
 カルガリー大学で政治学を教えるバリー・クーパー教授は、今回は倒閣は実現しないと見ている。
「結果は破滅だ。たとえ連立政権が成立したとしても、ミーエン内閣のように長続きしないだろう。そうなれば、次に来るのはハーパーの安定政権だ」。
 ミーエン内閣が倒れた後、キングの政権は17年も続いている。
 アルバータ大学で政治学を教えるスティーブ・パッテン教授は「首相は誰か、そしてどんな政策を掲げているのか?」と語り、自由党が党首選の最中であることに注目し、総督は左派連立政権を退けるだろうと予測した。

●首相は誰か
 誰が連立政権首班になるかは不透明だが、カナディアン・プレスは、当分の間自由党のステファン・ディオン党首を連立政権の首班とすることに野党が合意したと報じた。だが問題は、彼が10月の総選挙で大敗し、5月で辞任することを表明しているということである。状況次第ではディオンが党首辞任を撤回する可能性もあるが、すでに辞任を表明し党首選がスタートした以上、自由党の党則にもとづく限りそれは不可能だ。これに関し自由党広報のダニエル・ローゾンは「ディオン党首は続投したいなら、再び党首選に立候補する必要がある」と語った。
 ディオン首班への反対が強い場合は辞任してもらい、5月の党首選で新党首を選出するまで、暫定党首として経済に明るいジョン・マッカラム議員かラルフ・グッデール元財務相を首班とするケースも考えられる。事情通の自由党議員は、党首選立候補を表明したマイケル・イグナティエフ、ボブ・レイ、ドミニク・ルブランの3人は連立政権の首班にはならないと明言した。イグナティエフは党内右派で、新民主党・ケベック連合が拒絶反応を示すおそれがあるし、レイは以前新民主党党首だったためこちらも問題がある。そもそもかつてのルームメイトで今は犬猿の仲のイグナティエフとレイの一方を、選挙なしに首相にするようなことがあれば、政権はたちまち内部崩壊するだろう。もちろん新民主党のレイトン党首が首班では、自由党は納得すまい。

●ハーパー首相の反応
 ハーパー首相は11月28日、記者会見で以下のように述べた。
「彼らは権力を委任されたいのではなく、奪取したいのだ。」
「彼らは、建国以来最も低い得票率に終わった党に率いられる政権を樹立しようとしている。」
「彼らは、有権者に6週間前拒絶された党首を首相の地位に就けようとしている。」
「野党は政権を倒すためのあらゆる権利を持つ。しかしディオン党首には選挙の洗礼なしに政権を獲得する権利はない。」
「カナダの政権は、密室の裏取引によってではなく、カナダ国民によって決定されなければならない。それは、あなたがた国民の選択である。彼らの選択ではなく。」
 首相広報のコリー・テネイックは、総選挙敗北後わずか2か月後に連立政権を樹立しようとする動きについて「民主主義への侮辱だ」と非難し、「現在言われている連立政権は、全く前例がないものだ。自由党は、先の総選挙で建国以来最も低い得票率に沈みながら、分離主義者と社会主義者とともに裏口から政権の座に就こうとしている」と吐き捨てた。
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ハーバーセンターくん

【カナダの連立政権】

●大連立(連合カナダ植民地:1864-67)

 オンタリオとケベックが合併して成立した連合カナダ植民地では、イギリス系とフランス系の勢力が拮抗することで、政治はしばしば停滞し「デッド・ロック」に陥った。
 そこでジョン・マクドナルドは、念願のカナダ連邦結成を実現するため1864年、政敵ジョージ・ブラウンを説得し改革派などほとんどの党派を含む大連立を成立させた。ブラウンは翌年大連立から離脱したが、多くの改革派は彼に従わず連立政権にとどまったため、カナダ連邦結成は1867年無事に実現された。
by ハーバーセンターくん (2008-11-30 23:18) 

ハーバーセンターくん

●連合内閣(カナダ連邦:1917-20)

 1914年、第一次大戦が勃発した。カナダはヨーロッパの戦場に志願兵を送ったが、当初すぐ終わると思われていた戦争が長期化すると、兵力不足が深刻化した。そこでボーデン首相は徴兵制実施に向けて布石を打ち出した。
 ボーデンは1917年5月、自由党に挙国一致内閣の組織を提案した。これには2つの狙いがあった。一つは徴兵法案を全会一致で成立させ反対を封じること、もう一つは自由党のイギリス系議員とフランス系議員の分裂を誘発することだった。ローリエは大連立すれば徴兵制に反対できなくなり、自由党がケベックの支持を失うと同時に、ケベック民族主義のアンリ・ブラサを調子づかせることになるのを恐れ、この提案を拒否した。だが自由党のアングロフォン議員の多くは大連立に加わり、院内会派「連合」を形成し自由党は分裂した。
 ボーデン首相はこの機に乗じ、7月に徴兵法を成立させた。国民の反発は必至と思われたが、首相は10月に内閣改造に踏み切り、保守党12名・自由党9名・労働者1名・無所属3名からなる「連合内閣」を組織した。なお「労働者」とは電信技手をしていた保守党のギデオン・ロバートソンのことで、ボーデン首相は「挙国一致内閣」とは言っても社会主義者を入閣させるつもりは毛頭なかった。
 こうしてボーデンは、自由党の分裂と徴兵制の両方を巧妙に実現したうえで、12月の総選挙に打って出た。保守党は「連合」会派を名乗り、連合内閣に参加した自由党員は「連合自由党」を名乗り、参加しなかった自由党員は「ローリエ自由党」と呼ばれ、分裂選挙となった。選挙法に従えばカナダは前年に下院選挙を実施しなければならないはずだったが、イギリスの例に倣い、第一次大戦の非常事態において挙国一致内閣を組織するためという理由で、選挙を延期していたのである。
 ボーデンはさらに選挙を与党有利に運ぶため、抜け目なくいくつかの有事立法を成立させた。一つは「戦時選挙法」で、1902年以降に移住した敵国出身者から市民権を剥奪した。この法律はまた、志願兵の親族女子にも選挙権を認めた。こうしてこの年の選挙は、はからずもカナダ史上初めて婦人参政権を認めたものとなった。もう一つの法律は「軍人選挙法」で、海外派兵された軍人はどの選挙区でも自由に投票できるというものだったが、これは最も票がほしい選挙区に役人が軍人を誘導することを可能にするものだった。選挙結果は、定数235議席のうち連合153、ローリエ自由党82と与党圧勝に終わった。
 幸運なことに戦争は翌年終結した。ボーデン首相はパリ講和会議にカナダ代表を送り、国際連盟で1議席を得て、カナダの国際的発言力を戦前とは比較にならないほど増大させた。だが徴兵制は国民にはすこぶる不評で、ボーデンの政治生命を終わらせることとなり、1920年ボーデンは健康を理由に政界を引退した。そして彼の後継者アーサー・ミーエン首相は翌年の総選挙で大敗し、その後自由党のマッケンジー・キングによる21年にも及ぶ長期政権が始まることになるのである。
by ハーバーセンターくん (2008-11-30 23:25) 

ハーバーセンターくん

●自由党=保守党連立政権(ブリティッシュコロンビア州:1941-51)

 ブリティッシュコロンビアでは社会主義の協同連邦党が台頭し、1941年総選挙では自由党21議席、保守党14議席、協同連邦党12議席、労働党1議席という結果となり、どの党も過半数を得られなかった。
 自由党のダフ・パットロ首相は連立を拒否したため党首の座を追われ、ジョン・ハートが党首に就任し、保守党との連立政権を組織した。
by ハーバーセンターくん (2008-11-30 23:25) 

ハーバーセンターくん

●自由党=新民主党政策合意(オンタリオ州:1985-87)

 1985年2月、ビル・デービスは進歩保守党党首を辞任し、フランク・ミラーが総理・総裁に就任した。だがミラーはデービスに比べはるかに右寄りで、従来の進歩保守党支持者を困惑させた。またデービスが決めた、カトリックのセパレートスクールへの助成延長も、プロテスタント寄りの進歩保守党支持者には不評だった。
 1985年総選挙では、ミラーは野党党首とのテレビ討論を拒否し支持率を下げた。投票日にはかなり多くの進歩保守党支持者が、投票を棄権した。
 選挙の結果は、得票率では進歩保守党は37.0%と、自由党の37.9%を下回ったが、この時代は地方の議席がいくぶん多かったため、進歩保守党52議席、自由党48議席、新民主党25議席(定数125)となり、与党進歩保守党が少数政権を組織することとなった。
 全ての党が過半数に満たない状況で、新民主党はキャスティング・ボートを握った。ボブ・レイ党首は自党の政策を反映させるため、進歩保守党・自由党両党と交渉に入り、自党の政策を実現させる見返りに政権を支える協定を結ぼうと考えた。連立政権は党の独自性を損なうとして、党内での反発が強かったのである。
 ミラーの進歩保守党は革新の新民主党と政策で合意できず、レイ党首が協定を結んだのは中道の自由党だった。両党は、自由党のデビッド・ピーターソンを首班とする政権を2年間支援する協定に調印した。
 6月、レイ党首が提出したは内閣不信任案が可決され、ミラー首相は辞任した。両党協定を受けてジョン・エアード副総督はピーターソンに組閣を命じ、42年に及んだ保守党王朝に終止符を打った。

 ピーターソンは後年、いかなる連立も拒否するつもりだったと述懐した。レイは1990年総選挙に勝利して、オンタリオ初の革新政権を樹立した。現在は自由党党首選に立候補を表明している。
by ハーバーセンターくん (2008-11-30 23:27) 

ハーバーセンターくん

●マニトバ大連立(マニトバ州:1940-50)

 マニトバ州政治では1888年に政党政治が始まって以来、自由党と保守党が交互に政権を担当してきた。だが1920年代に入ると農民と労働者が新党を結成し、二大政党制に変化の兆しが見えてきた。
 1920年州議会選挙で初めて登場したマニトバ農民連合は、政権獲得の意志がなく、党首も存在せず、政党ですらないと主張した。3分の2の選挙区にしか候補を立てなかったにもかかわらず、定数55議席のうち12議席を獲得し、与党自由党を過半数割れに追い込んだ。
 そして1922年州議会選挙で、古い体制は一掃された。マニトバ農民連合が28議席を獲得し第一党となったのである。選挙の後、党首と首相を選出するため幹部会が初めて開かれた。マニトバ農民連合は進歩協会の候補を公認していたので、連邦進歩党のトーマス・クリアラーに総理・総裁就任を依頼したが、拒否されてしまい、マニトバ農業大学学長ジョン・ブラッケンを総理・総裁とした。マニトバ北部の3選挙区の選挙が延期されていたため、ブラッケンはこのうち1つの選挙区に出馬して、議席を獲得した。
 マニトバ農民連合は1928年、議会に候補者を送ることをやめ、後援活動に専念することとし、名称をマニトバ農業連合会に改めた。これは与党となった党が、農民のためだけの党であるかのように見なされることを恐れたからである。こうして与党議員団はマニトバ進歩党となった。
 1931年、マニトバ進歩党はマニトバ自由党と連合会派「自由=進歩連合」を結成した。連邦進歩党はすでに連邦自由党に吸収されており、保守党政権を阻止するため、マッケンジー・キング首相はマニトバでも両党は連携すべきだとして圧力をかけたのである。両党は最終的には合併し自由進歩党となった。サン・ボニファス市長デビッド・キャンベルに率いられた自由党の一部は、合併に反対し「継続自由党」を名乗って出馬したが、1議席も獲得できなかった。
 ブラッケン首相は戦時中の1940年には、保守党・協同連邦党(CCF)・社会信用党とともに大連立内閣を組織した。協同連邦党は1943年に離脱したが、大連立は進歩保守党が1950年に離脱するまで続いた。
 自由進歩党は1961年、名称をマニトバ自由党に改めた。
by ハーバーセンターくん (2009-01-02 10:38) 

ハーバーセンターくん

●新民主党=自由党連立政権(サスカチュワン州:1999-2001)

 1999年のサスカチュワン州議会選挙(定数58議席)では、新党サスカチュワン党が躍進した。その得票率は39.6%と、与党新民主党の38.7%を上回ったが、獲得議席は25議席にとどまった。新民主党は29議席と過半数に1議席不足していたが、ロイ・ロマノウ首相は3議席の自由党と連立し政権を維持した。自由党議員の3人は1人が議長、2人が閣僚に就任した。
 2001年に自由党党首となったデビッド・カルワキは、連立の解消を通告した。政権に入っていた3名は自由党会派を離脱し、無所属議員として政権にとどまった。
by ハーバーセンターくん (2009-02-01 17:17) 

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